トップ文化御一身を擲ち平和への道開く 昭和天皇が詠まれた御製4首 国民と国柄を守る御決意

御一身を擲ち平和への道開く 昭和天皇が詠まれた御製4首 国民と国柄を守る御決意

昭和天皇御製碑

80年前の夏、昭和天皇の御聖断によって大戦が終結し、日本は戦後復興への歩みを始めた。8月15日の正午にラジオ放送された「終戦の詔書」にその基本姿勢が示されているが、この詔勅とは別に、昭和天皇は終戦に際して次の4首の御製を詠まれた。

爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも

身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて

国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり

外国(とつくに)と離れ小島にのこる民のうへやすかれとただいのるなり

侍従次長を務めた木下道雄氏が昭和43年刊行の『宮中見聞録』で発表したもので、昭和天皇がどのようなお気持ちで終戦を決断されたか、大御心を知る上で重要な御製である。日本の戦後の出発点がここにある。

ポツダム宣言の受諾を巡っての御前会議では、連合国が日本の国体に変更を加えるのか、天皇の命が保障されるのかが議論の的になった。国体については、ほぼ守れるだろうが天皇の身の安全の保障はなかった。それでも昭和天皇は、これ以上国民の命を犠牲にすることはできないと、戦火に苦しむ国民、外地に出征した将兵の身を案じ、御一身を擲(なげう)って宣言受諾を決断された。世界の歴史でもほとんど例のないことである。

この御製の発表後、<身はいかに><爆撃にたふれゆく>の御製碑が、東京の富岡八幡宮をはじめ全国各所で建立された。ちなみに富岡八幡宮は、昭和20年3月18日、昭和天皇が東京大空襲の被災状況を視察された場所である。

昭和天皇は同じ内容を詠まれた<身はいかに>と<爆撃にたふれゆく>のどちらかに決定したいと御病床でも心を砕いておられた事を歌人で昭和天皇の和歌の相談役だった岡野弘彦氏が明かしている。この御製は、まさに昭和天皇の御生涯を凝縮するような御製であった。

しかし、平成2年に出版された昭和天皇の御製集『おほうなばら』には、<爆撃にたふれゆく>と<外国と>の2首は採られたが、重要な御製<国がらをただ守らんと>の御製は採られなかった。

『おほうなばら』は徳川義寛侍従長(当時)が編纂責任者で岡野弘彦氏がそれを補佐した。<国がらを>の御製が採られなかったのも徳川侍従長の判断によるもので、この御製はほとんど封印されたかたちとなったのである。

徳川侍従長がなぜ<国がらを>の御製を採らなかったのか、その理由を明かしてはいない。「国がら」がかつての「国体」につながり、戦後体制下では相応(ふさわ)しくないという判断が働いたのかもしれない。極めて官僚的な判断と言うしかない。

昭和天皇が終戦に際して、国民の命と共に守ろうとされたのが日本の「国がら」すなわち「国体」であったという事実は封印されるべきではない。「国民」と「国がら」の二つを守れば、日本は必ず再興できるというのが昭和天皇の強い御信念だったと思われる。ポツダム宣言の受諾を巡って、何より国体の護持を心配した重臣たちの忠誠の思いも汲(く)み取られていると思われる。

令和の御代となって、「国がら」がこれまで以上に問われている。昭和天皇の御製を改めて噛(か)みしめる時が来ている。

(特別編集委員・藤橋 進)

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