トップ文化おいしいコメを守る水主神社 香川県東かがわ市 孝霊天皇の皇女が大和から漂着【宗教思想】

おいしいコメを守る水主神社 香川県東かがわ市 孝霊天皇の皇女が大和から漂着【宗教思想】

水主神社本殿

香川県の最東部、徳島県鳴門市と境を接する東かがわ市の水主(みずし)地区はおいしいコメ「水主米」の産地として知られる。本宮(ほんぐう)山、那智山、虎丸山の水主三山に囲まれ、山からの豊富な伏流水がおいしさの秘訣(ひけつ)だ。その水主地区の与田川のほとり、大内ダムにほど近い山裾に鎮座する水主神社は、重要文化財「大般若経」の経箱底書に奈良時代の宝亀(ほうき)年間(770~781年)の創祀(そうし)と記録されている。

祭神は第7代孝霊天皇の皇女・倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)で、社殿によると、姫は8歳の時に孝霊天皇の黒田の宮を出て、うつぼ舟で当地に漂着したという。境内にはうつぼ舟に模した石船や飛鳥の須弥山石(しゅみせんせき)に似た立石が祀(まつ)られている。

水主米の里ののぼり

百襲姫は三輪山の神である大物主神との神婚譚(しんこんたん)や箸墓古墳の伝承で知られ、未来を予知する呪術を身に付けていたとされる。当地では、日照りに苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開いて米作りを助けたとされ、神社の裏山に御陵がある。百襲姫は水との関わりが深い讃岐国一宮の田村神社の御祭神でもあり、畿内に近い東讃地方には百襲姫の伝承が多く、大和朝廷との関係の深さを示している。

水主神社は水徳自在の神として人々に尊崇され、讃岐国では最も早く承和3(836)年に神階従五位下を奉授されている。以後、貞観8(866)年には従五位上、天慶3(940)年には藤原純友の乱の平定祈願により正五位下、さらに正一位まで進み大水主大明神と称された。国衙(こくが)関係者の参拝や社領の寄進がたびたびあり、寿永年間(1182~1184年)には屋島の戦いにやって来た源義経が雷紋螺鈿鞍(らでんくら)を奉納したと伝えられている。

樹齢800年の大杉

天正11(1583)年、土佐から攻めてきた長宗我部軍の兵火で本殿を残し社殿が焼失したが、その後、領主になった生駒氏の崇敬を受け、讃岐の東部、大内(おおち)郡の総鎮守として社殿が造営された。明治初年、郷社に列格し、同35(1902)年、県社に昇格している。

水主神社の別当寺は、古くは真言宗の虚空蔵院(こくぞういん)(與田寺〈よだじ〉)であったが、室町時代には円光寺、江戸時代には大水寺が務めていた。同寺は虚空蔵院の末寺で、もとは水徳山宝珠院神宮寺と称したが、寛文年間(1661~1673年)大水寺に改めた。創建は不詳だが、応永年間(1394~1428年)増吽(ぞううん)僧正が再興したとされ、本尊は阿弥陀如来。延暦9年(790)に24歳の最澄が水主神社と大水寺に参籠している。境内南側の閼伽(あか)谷にある仏に供える水をくむ井戸「閼伽井」は空海の手掘りと伝わり、水神社が祀られている。

増吽僧正は弘法大師の再来といわれた名僧で、熊野三山を深く信仰し、熊野新宮再興の遷宮導師を務めている。水主神社南東の虎丸山に新宮神社、西の本宮山に本宮神社、北の那智山に那智神社を勧請(かんじょう)し、脇宮に水主三山として祀っているので、神仏融合の時代には修験道場として栄えていたのであろう。

うつぼ舟を模した石船

境内には樹齢800年の杉が神社の歴史を物語り、付近からは縄文時代の石器、弥生・古墳時代の土器が多数発見されている。社殿はすべて春日造りで統一されており、社領を示す立石は大内・白鳥町内に今も残されている。

(多田則明)

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