ゲルツェンがその原因を分析
ロシアの亡命貴族ゲルツェンによる自叙伝『過去と思索』(全7冊、岩波文庫)が復刊された。ここにはロシアやフランス、スイス、英国などで出会った革命家、思想家たちが多数登場し、西洋の社会事情など興味深い記述が多く、19世紀半ばのヨーロッパを考える上では貴重な文献。
6冊目に収録されているのはイギリスでの体験で、まとまった紙数を費やしている一人が社会主義者で実業家のロバート・オーウェンだ。ゲルツェンも新しいロシアがどう築かれるべきものか、自由な言論を求めた社会主義者として関心をそそられたらしい。

ゲルツェンがオーウェンに会ったのは1852年、ロンドンにやって来て間もない時。ある婦人から招待状を受け取って彼女の別荘に行くと、客間で彼が待っていた。小柄で痩せた老人だった。この婦人は政治家の娘で、2年前、フランスのニースで、ゲルツェンがイタリアの革命家マッチーニから紹介された。
老人の髪は白く、善良そうな顔をしていて、澄み切った、明るいまなざしを持っていたという。オーウェンは82歳で、ゲルツェンは40歳。その3年後にも2人は再会するが、すでにオーウェンはスコットランドにあるニュー・ラナークでの事業は失敗していて、ゲルツェンはその原因を知っていた。

ゲルツェンは伝記や評論を基にこれを書いたが、よく知られた社会事業の内容についてはわずかしか触れていない。それは彼が共同経営者となって最新技術を導入し、発展させた紡績工場のことで、優れた経営手腕で労働者を雇用し「綿業王」となった。また労働者の生活改善やその子弟の教育に尽力して、幼稚園や共済店舗をも設けた。 ゲルツェンはその事業を読者に「この人こそが人類に対して〈無罪〉を、犯罪者に対して〈無罪〉を大胆に宣言した陪審員」と紹介する。唯物論者で、宗教を否定していたからだ。
最初の話題は、ロシア皇帝ニコライが若い時、ニュー・ラナークを訪問したという話だ。その後、オーウェンはロシアに招かれ、ロシアでその社会事業が成功する可能性があると語るが、ゲルツェンはその可能性を否定した。
成功時とは違ってその頃オーウェンが演説しても、見向きもされなかったという。聴衆は同じ話の繰り返しに飽き飽きしていたが、「本当の理由は―彼が聴衆の心を深く傷付けるからであった」。それを一言で「聖物冒涜」だという。
発端の事件をゲルツェンはこう語る。「オーウェンは自分の語ってきたことの完全な無理解に基づくすさまじい人気を、おのれの無縁慮さによって一気に、十五分で打ち砕いてしまった」と。
オーウェンの人気があったのは誰もがその思想を知らなかった故で、無遠慮に本音を語ると聴衆を深く傷つけたというのだ。プロテスタントの篤信者たちから質問されて、こう答えた。1817年8月の出来事。
「狂信の愚劣さは人間を無力な分別のない獣に、また愚かな狂信者、偽聖者あるいは偽善者にしてしまいました」
新しい共同生活の調和ある発展にとって主な障害になっているのは、宗教であると。
ゲルツェンは《ウエストミンスター評論》を引用して、「この日から過去40年間の数々の失敗の目録が始まる。彼は殉教者などではなく、無法者だった」と記す。
米国でも事業をやろうとしたが失敗した。その理由はその土地がクエーカーによって開拓されていたからだ。オーウェンの誤りは、境界線を越えて人々を教会の外へ連れ出そうとしたことだったとゲルツェンは論評する。
この時代、近代社会に向けての数々の思想と革命の実験が行われた。その一例として紹介し、未来社会を考える材料としたようだ。





