トップ文化豊川稲荷に見る神仏融合 禅僧を守ったインドの女神

豊川稲荷に見る神仏融合 禅僧を守ったインドの女神

愛知県豊川市にある豊川稲荷を訪ね、驚かされたのは奥の院にある霊狐塚(れいこづか)。もとは納めの狐(きつね)像を祀(まつ)る場所だったが、信者が祈願成就のお礼に奉納した大小の狐の像が約1000体にもなったという。ここだけを見ると、伏見稲荷よりも稲荷らしい稲荷社だが、豊川稲荷の正式名は円福山豊川閣妙厳寺(みょうごんじ)という曹洞宗の寺院で、本尊は十一面千手観音である。なぜ寺が稲荷になったのか?

駒狐がいる豊川稲荷の本殿

豊川稲荷の「稲荷」とは、境内の鎮守として祀られる豊川荼枳尼天(だきにてん)のことで、荼枳尼天が稲穂を荷(にな)い、白い狐にまたがっていることから、いつしか「豊川稲荷」が通称となった。荼枳尼天はインド古代の民間信仰に由来する仏教の女神で、日本では稲荷神と同一視されている。

妙厳寺の歴史は後に曹洞宗に吸収される日本達磨(だるま)宗の寒巌義尹(かんがんぎいん)に始まる。順徳天皇の第三皇子として生まれた寒巌は天台教学を学んだ後、越前の日本達磨宗に入り、さらに曹洞宗祖の道元を宇治の興聖寺に訪ねて師事し、26歳で道元の法を嗣(つ)いだ。その後、宋に渡って仏法の深義を究め、道元の没後に帰国すると、宇治の興聖寺で道元の語録を編纂(へんさん)した。再び宋を訪ね、帰国後は博多の聖福寺に身を寄せ、熊本に幾つかの寺を開き、海辺に農地を干拓するなどの社会事業も行った。

千体の狐の像がある霊狐塚

寒巌が2度目の帰国の航海の際、空中に稲束を荷い、手に宝珠を捧げ、白狐にまたがって声高らかに真言を唱えながら霊神が現れたのである。それが荼枳尼天で、帰国後、寒巌は自ら霊神を像に刻み、護法の善神として寺に祀った。

その後、寒巌から6代目の弟子・東海義易(ぎえき)が1441年、豊川に妙厳寺を開創し、御本尊に寒巌伝来の千手観世音菩薩を安置、寒巌自作の荼枳尼天像を山門の鎮守として祀ったのである。その霊験はあらたかで、今川義元や織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らの武将をはじめ広く庶民から信仰されるようになる。江戸時代になると、商売繁盛・立身出世・家内安全に御利益があるとの信仰が広まった。

東京・赤坂にある豊川稲荷東京別院の境内には名奉行・大岡忠相(ただすけ)を祀る八角堂の霊廟(れいびょう)がある。同別院は、忠相が豊川稲荷から本尊を江戸の下屋敷に勧請(かんじょう)したのが始まり。忠相の荼枳尼天信仰は、三河に定着した大岡氏が豊川稲荷を代々信奉していたことに由来し、町奉行から大名に立身したのもその御利益か。

明治の神仏分離令で妙厳寺にも神仏区別の厳しい取り調べが及んだ。幕藩下の有力旗本が競って信仰し、国民的な帰崇(きそう)を受けて繁栄した豊川稲荷の分断の危難を救ったのが、西の高野・大寧寺(山口県長門市)の第45世住職・簣運泰成(きうんたいじょう)である。簣運は幕末、都を追われて長州に逃れた7人の公卿の一人、三条実美(さねとみ)を手厚く保護していた。維新後、山口を追われ豊川閣妙厳寺に身を寄せていた簣運は、妙厳寺の神仏分離に遭遇し、新政府の三条卿や長州人に働き掛け、豊川稲荷を危難から救ったのである。

豊川稲荷東京別院山門

それにより、稲荷堂を寺院鎮守として祀ることは認められたが、鳥居は撤去され、「豊川稲荷」「豊川大明神」の呼称は禁止され、以後は「豊川●枳尼真天(だきにしんてん)」と号するようになる。その後、通称として「豊川稲荷」と呼ぶことは認められ、鳥居は戦後になってから現在地に建てられた。

江戸時代まで全国の寺社に荼枳尼天を勧請していた京都の愛染寺(伏見稲荷本願所)が廃寺になったことにより、明治以降は豊川稲荷が寺院への荼枳尼天勧請の役割を担うようになった。全国の稲荷神社は京都の伏見稲荷を総本社としているが、豊川稲荷は神社ではなく寺院で、信仰対象は「稲荷」と通称されてはいるが、実は荼枳尼天。神仏融合にもいろいろな歴史と様式があるのが興味深い。

(多田則明)

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