1919年1月、内村のもとに数百通の年賀はがきが届いたが、多くは「平和の年」を祝賀していた。前年11月に第1次世界大戦が終わり、新年からパリ講和会議が開かれるからだ。だが内村は「外交的手段によって恒久的な平和がやってくるのではない」「世界はますます暗黒である」と「日々の生涯」(1月2日)に記した。
17日から19日にかけて予定されていた、大阪の中之島公会堂での「基督再臨問題研究関西大会」を開いた時、来会者の数が極めて多く、19日には2300人を超えて過去最大の大会になった。

それを終えて帰ってくると疲労で熱を出し、顔面神経疼痛(とうつう)を感じ、仕事を休んで休養した。その頃、内村の講演を聞いた作家の島木健作は、「礎」の中でその剛毅(ごうき)な風貌をこう描写する。
「確信に満ちて力強く言い切る時、挑戦的な言葉とともに睥睨するように顔を上げる時、顎の力にぐんと押し上げられたかのように大きな口が結ばれた。次に口を開くまでの三秒か四秒かの間の顔はどんなことがあっても、たじろがぬ信念の人の威力と美しさに満ちていた」
再臨運動の期間に聖書研究会来聴者は3倍から6倍にも増え、同志の信仰は復興し、結束は固くなった。
一方で反対論を主張する牧師や神学者らが次々現れた。内村はその名を挙げる。富永徳磨、海老名弾正(だんじょう)、三並(みなみ)良(はじめ)、内ヶ崎作三郎、今岡信一良(しんいちろう)、杉浦貞二郎、クレー・マッコレー、E・H・サング、帆足(ほあし)理一郎。牧師と神学者らは再臨信仰を多数決で否決。
かつて内村はメソジスト教会の宣教師から洗礼を受けたが、その教会の機関誌で反対論を読む。その教会で内村は昔「聖書を文字通り神の言として信ぜよ」と教えられたが、機関誌を見ると「聖書の言なりとて信ぜずともよし、基督の教にありたりとて信ぜずともよし」と教えていた。
その頃、内村は今まで書いたものをまとめて内村全集を作ろうとしていた。弟子の畔上(あぜがみ)賢造が編集の任に当たり、警醒社から5月に第1巻を刊行。1週間で初版が売り切れ、第2版、第3版と出し、出版社は利益を上げた。
ところが同じ出版社から富永徳磨の『基督再臨説を排す』という書物が出され、広告文にこうあった。「世を惑わし、基督教を誤る再臨説に向かって大痛撃を加えたものの、再臨説は全然粉砕し尽くされて痕跡だになし」
警醒社はこの広告文について「著者富永が自ら筆を執って書いたもの」と弁解したが、内村は「これでは『内村全集』読むべからずというと同じである」と怒り、8月3日、その全集の発行中止を申し入れた。
節操を考えなかった出版社は衰微していったが、内村も出版社を失った。
また5月27日には、東京基督教青年会主事の荒川哲次郎が内村邸にやって来て、同会館の使用を拒否するという理事会の決議を伝えてきた。理由を告げるのでもなく「断る」と言うのだ。
その夜、理事の長尾半平と伊藤一隆も来て、この決議に反対して理事を辞めたと内村に語った。
内村は出版社を失い、青年会館からも追われて、再臨運動は中断する。





