トップ文化安土桃山時代に仏都から転換 隠れキリシタンの地―福島県会津地方  

安土桃山時代に仏都から転換 隠れキリシタンの地―福島県会津地方  

蒲生レオン氏郷が布教
各地に残る信仰の痕跡

福島県会津地方は、東北でいち早く仏教文化が開き「仏都会津」として有名だ。平安初期、最澄との論争で有名な法相宗(ほっそうしゅう)の僧・徳一(とくいつ)が布教活動のためこの地を訪れ、礎を築いた。時は下って安土桃山時代、今度は一人の武将がキリスト教信仰を広めることになる。キリシタン大名蒲生氏郷(がもううじさと)である。

会津若松市町北町上荒久田にある天子神社。天主堂跡と考えられている

氏郷は近江国日野に生まれ、織田信長に臣従し信長の娘冬姫を妻とした。信長亡き後は豊臣秀吉に従い、伊勢松坂城主を経て1590(天正18)年、奥州(おうしゅう)の押さえとして陸奥(むつ)国会津黒川に移封された。氏郷は故郷日野の「若松の森」にちなんで黒川を若松と改めたのが、現在の会津若松の由来である。

氏郷はキリシタン大名・高山右近の勧めで1585(天正13)年、洗礼を受ける。洗礼名をレオン(またはレオ)といった。直木賞作家の安部龍太郎氏は「レオン氏郷」として、同名の長編小説で氏郷の波乱に満ちた生涯を生き生きと描いている。

秀吉は1587(天正15)年にバテレン追放令を発令したが、氏郷は表面的には棄教したふりをして、遠く会津の地で熱心に布教に努めた。レオン氏郷は、家臣から領民に至るまでキリスト教への帰依(きえ)を勧め、信者は会津全域にまで広まったといわれている。

薬師河原の刑場跡にあるキリシタン塚

現在の会津若松市内には、天子(てんし)神社と名付けられた神社が数カ所あり、氏郷の時代にはこの場所にキリスト教の天主堂があったとされている。また磐梯(ばんだい)山麓(さんろく)の猪苗代にはセミナリオ(神学校)があったと伝わるが、所在は明らかではない。その他、南会津地方では額に十字が彫られたマリア観音やイコンなども発見されており、各地にキリシタン信仰の痕跡が残っている。
作家の故松本清張氏は『奥州の二人』で、東北の雄・伊達政宗と名君・蒲生氏郷の対立を描いているが、家臣支倉常長(はせくらつねなが)をローマに派遣するなどキリスト教に好意的だった政宗と、キリシタン大名レオン氏郷が手を握ることができていたら、東北の地にはさらにキリスト教が広まっていたかもしれない。

惜しむらくは、レオン氏郷が1595年、40歳という若さでこの世を去ったことである。会津ではその後もキリシタンへの庇護(ひご)が続いたが、徳川家光の治世になると弾圧が激しくなり、1635(寛永12)年には会津キリシタンの指導者だった横沢丹波はじめ60余名に及ぶ大掛かりな処刑が行われた。『切支丹風土記』(宝文館)には、「刑は12月17日から20日にかけて行われた。18日には横沢丹波が、南無阿弥陀仏の6字の名号をつけた白衣を着せられて、逆さ十字にかけられた。20日には外人のバテレンが逆さはりつけにされた。普通日本人なら2日で絶命するのに、この外人は26日の夕刻まで1週間の間生きていて見物人に強い感銘を与えた」とある。処刑は女子、子供も含めた大変痛ましいものであった。

JR只見線七日町(なぬかまち)駅から北西へ1.3㌔ほどの所にある薬師河原の刑場跡には地元カトリック教会の手によるキリシタン塚がある。また、信者が多かった猪苗代町には、会津藩主・保科正之(ほしなまさゆき)を祀(まつ)った土津(はにつ)神社近くの森の中、殉教したキリシタンの亡骸(なきがら)が葬られた地に記念碑が立っている。

(長野康彦、写真も)

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