トップ文化「七支刀」が語る日本と百済 奈良国立博物館調査 X線CTで論争の文字を判読

「七支刀」が語る日本と百済 奈良国立博物館調査 X線CTで論争の文字を判読

対等な同盟関係の象徴 「泰和4年」書紀の記述と合致

百済から倭王に贈られた石上神宮(奈良県天理市)の神宝で国宝の「七支刀」。左右に3本ずつ枝刃が出る特異な形をした刀身には60ほどの文字が金象嵌(ぞうがん)で刻まれ、古代東アジア史の重要な金石史料となっている。

「七支刀」が伝わる奈良県天理市の石上神宮(辻川吉夫撮影)
「七支刀」が伝わる奈良県天理市の石上神宮(辻川吉夫撮影)

奈良国立博物館は、16日まで開かれていた特別展「超国宝―祈りの輝き―」での展示を機に、七支刀のX線CTによる調査を実施した。明治の初めに石上神宮に赴任した神職の菅政友が銘文を発見して、今年はちょうど150年目に当たる。

調査の結果、これまではっきりしなかったいくつかの文字が浮かび上がって来た。それは「日本書紀」の記述に合致するものだった。

「日本書紀」の神功皇后摂政52年には、百済から「七枝刀(ななさやのたち)」が贈られたことが記されている。これが石上神宮の七支刀に当たるとみられるが、銘文には象嵌が欠けた部分などがあり、判読、解釈を巡ってこれまで論争が繰り広げられてきた。

まず七支刀が作られた年代を特定する冒頭の「泰□四年」については、中国・東晋の年号の「泰和」4年(369)とするか、南朝・宋の「泰始」4年(468)にするかで分かれていたが、今回の調査で、のぎへん「禾」がかなりはっきりと出てきたため「泰和」である可能性が高まった。

神功皇后紀では、「七枝刀」が贈られてきた年は壬申となっており、実年代の研究で西暦372年とされている。七支刀が作られた3年後で、年代的にはピタリと一致する。こうして絶対年代がはっきりしたことで、日本古代史上「空白の世紀」と言われる4世紀の解明の大きな足掛かりを得たことになる。

また「百済」の「済」に当たると見られていた文字もはっきりと判読できるようになった。「済」の字については、「滋」とする説もあり、その場合は百済が自国を美化し、倭王に下賜したことになる。この百済下賜説は、銘文にある「候王」の文字の解釈などから韓国の金錫亭氏や日本の上田正昭氏もとっていた。しかし今回、「百済」と書かれていることが明らかとなり、百済と日本が対等の関係であったことが分かる。

一方「日本書紀」では、七支刀が「七子鏡」などと共に百済から「献上」されたと書かれているが、これは自国を上に置く後の潤色によるものと思われる。後に編纂された史書より同時代の一次史料がより真実の関係を示していることは言うまでもない。

ただ、両国関係を観た場合、北から高句麗の圧迫を受けていた百済の方が、倭との外交関係構築が切実で、より積極的であったことは間違いない。「日本書紀」には神功皇后46年、百済の肖古王が倭に使いを送ったが、加耶の卓淳(とくじゅん)国(慶尚南道昌原市付近)まできて、渡海が困難であると知り引き返した話を倭王の使者が卓淳王から聞いたことが、百済との交流のきっかけであったと書かれている。

こうして軍事外交上の後ろ盾を必要とする百済と、その先進的な技術や文化に魅力を感じて来た倭との間にウィンウィンの関係が成立した。その後、百済は漢字や仏教など先進文化の供給国となる。4世紀後半から始まる日本と百済の同盟関係は、様々な変化はあるものの、660年の百済滅亡まで続いた。そればかりか滅亡後も日本は百済復興軍への救援軍を送り、白村江の戦い(663年)で大敗、多くの百済人が日本に亡命し国造りに関わっていく。

七支刀は約300年間続いた日本と百済の同盟、そして人的文化的な繋(つな)がりを象徴するまさに世界遺産級の宝物と言える。

spot_img

人気記事

新着記事

TOP記事(全期間)

Google Translate »