
おくのほそ道(以下ほそ道)紀行で日光に到着した松尾芭蕉と河合曽良は、4月1日(陽暦5月19日)、日光東照宮を参拝した。ほそ道での日光に関する記述は短い。
昔この御山は「二荒山(ふたらさん)」と書かれていたが、弘法大師空海がこの御山を開いた時に二荒(にこう)と音読みにして「日光」と改めたこと、千年後の繁栄を予見していたのだろうか、徳川家の御威光は素晴らしい、といったことを記している。
日光で芭蕉は次の句を残した。
<あらたふと青葉若葉の日の光>
日光山はなんと尊いことだろう。新緑に埋もれる木々の下まで燦々(さんさん)と日の光が射している。これは弘法大師さま(空海)と東照大権現さま(家康公)のおかげだ、という意味である。
この句の初案は<あなたふと木の下闇も日の光>で、<あらたふと木の下闇も日の光>へと「あな」を「あら」に変え、推敲を重ねて現句になったようだ。この「あら」は二荒山の「(ふ)たら」と響きを合わせるために用いた可能性がある。日の光はもちろん陽光だが、そこに天下にあまねく行き渡る徳川家の御威光をも重ねたのだろう。

この季節に訪ねると、日光は常緑樹の青葉と落葉樹の若葉が日の光に照らされて実に美しい。見るべきものもたくさんある。しかし芭蕉は、ほそ道・日光のくだりで、書きたいことはたくさんあるが、「猶(なお)、憚(はばか)り多くて筆を差し置きぬ」と早々に筆を置いている。
芭蕉は正午ごろ到着し、まず養源院という近くの寺院を訪ねている。そこの案内で東照宮社務所に赴くが、先客があり待たされて、参詣は午後3時ごろだったようだ。この養源院は徳川家康の側室であった於六の方の院号が「養源院」であったことから、そのまま寺号としたもの。明治の神仏分離の際、廃寺となり、今は杉木立の中にその面影を残すばかりである。
翌日、芭蕉は「裏見の滝」を見に行っている。東照宮から直線距離にして4㌔ほど西にある山間のこの滝は、「華厳の滝」「霧降の滝」と並ぶ日光三名瀑(めいばく)。ここで芭蕉は次の句を詠んだ。
<暫時(しばらく)は滝にこもるや夏(げ)の初(はじめ)>
僧が夏の間、陰暦4月16日から7月15日までの3カ月間、寺にこもって修行する安居(あんご)が下敷きとなっている。この期間を一夏(いちげ)といい、安居は夏籠(げごもり)とか、夏行(げぎょう)ともいう。かつては滝の裏側に回ることが可能だったため、芭蕉は裏側から滝を眺め、ひとときの間こもって、僧たちの夏行も始まる頃だ、との思いを詠み込んだのだろう。
日光と言えば華厳の滝が有名だが、芭蕉はそれを見ずに同日、さっさと次の目的地・那須の黒羽へと向かった。華厳の滝へは現在いろは坂で有名な山道を登ってさらに何㌔も行かなくてはならない。芭蕉の頭には先を急ぐ思いと、はるかみちのくを目指すための体力温存という意味合いもあったのかもしれない。
(長野康彦)