
内村にとって1918年は多忙に多忙を重ねる年となった。欧米の宣教師らは夏の間、山間の別荘で2カ月間の休暇を取って過ごすが、内村の休暇は3日間だけ。彼らを「羨みました」とベル宛て書簡で伝えた。
10月に入ると、11日から18日まで、岡山県方面に、今年で4回目の講演旅行に出かけた。11日夜、岡山県の県会議事堂で第1回講演があり、「世界問題としての基督再臨」をテーマに語り、500余名の来聴者があった。九州、出雲、四国、京阪神から集まり、内村も驚いて励まされた。
12日、午前中は東山公園と後楽園に遊び、午後第2回講演会があり、題は「聖書問題と再臨問題」。同じく500余名の来聴者があった。晩餐(ばんさん)会では、「この地の人たちは賢くて、単純な福音は受け入れがたいように見える」と感想を述べた。
翌13日、後楽園を散策し、宇喜多秀家築城の天守閣に登り、朝の祈りをささげる。午後の講演会で「聖書の大意」と題して語り、献金200円以上あって努力が無駄でないことを感謝した。この講演旅行は中田重治が一緒で、中田も講演者。
14日、岡山から宇野を経て瀬戸内海を渡り、讃岐高松に。初めての四国旅行だ。栗林公園から後屋島に行き、談古嶺(だんこれい)から源平の古戦場を見下ろし、源平合戦の陣立てを知る。その夜、高松から岡山へ戻ったが、瀬戸内海の風景に深く感動し「松島も及ぶところではない」と絶賛した。
15日、播州播磨(ばんしゅうはりま)に行き、一の谷にある友人の邸宅を訪ねた。京都大阪から教友が集まって、古(いにしえ)の戦場は祈祷の場所となる。
16日、午後3時まで一の谷で過ごし、景色を眺め再臨の福音を語った。夕方、大阪へ。安堂寺橋(あんどうじばし)通りにある永廣堂本店今井方に着き、客として歓迎され、夜は上町基督信者集会所で集会に出席。
17日、大阪から京都へ。便利堂主人と共に教友に招かれて、鴨川の料理屋で水炊き料理をごちそうになり、夜行列車で帰途に。
18日、品川に着き、出迎えられて自宅に。
待っていたのは多数の郵便物で、内村の再臨観を攻撃するもの、岡山での行動を非難するもの、金銭的援助を乞うもの、地方公演の依頼、結婚式施行の日取り、感謝の辞など種々雑多。関西旅行に関しては、「無教会主義の故を以て余を悪む事の甚だしい事」を感じたと19日、記す。
この時期は、9月22日に東京基督教青年会館で始まった秋期大運動聖書講演会の期間にあたり、10月20日の第5回講演会(来聴者500余名)と、11月3日の第6回講演会(来聴者400余名)で講師を務めた。語ったのは「青年学生が天然を研究するに方りその中に神を認めることの必要」についてだった。
鈴木俊郎の解説(『内村鑑三著作集第19巻』)によると、内村の伝道対象はそれまで『聖書之研究』の教友である地方農村部の有力者が多かったが、再臨運動が大都市を中心として行われるようになると、都市の知識階級や学生層に移り、『萬朝報(よろずちょうほう)』の記者時代以来、再び一般人の注目するところになった。
(増子耕一)
(毎月一回掲載)