
5月2日、奈良市の華厳宗大本山東大寺で、756年の同日に崩御(ほうぎょ)されたとされる聖武(しょうむ)天皇の御忌法要(ぎょきほうよう)が営まれた。世界最大の木造建築として世界遺産にも登録されている東大寺はこの時期、多くの観光客でにぎわい、大仏殿での慶讃(きょうさん)法要は参列者と共に観光客が見守る中、厳かに執り行われた。
聖武天皇(在位724~749年)は奈良時代中期、文武(もんむ)天皇の皇子として生まれ、実力者、藤原不比等の娘・光明子(こうみょうし)を后(きさき)とした。即位して間もなく貴族同士の勢力争いや天然痘の大流行など不安定な政情が続いたため、関東(伊勢国、美濃国)への行幸や恭仁京(くにきょう)(今の京都府木津川市)へ遷都し、745年に平城京に戻った。後に「彷徨(ほうこう)五年」と呼ばれる。
仏教に深く帰依するようになった聖武天皇は、741年に国分寺建立の詔を、743年には東大寺盧舎那(るしゃな)仏像の造立の詔を出し、今に伝わる「奈良の大仏さま」を造立した。これらにより、聖武天皇の治世を中心に仏教中心の天平文化が栄えるようになる。
欽明(きんめい)天皇の時代の仏教公伝と受容に始まり、聖徳太子らが目指した仏教立国は、聖武天皇の時代になってほぼ完成したと言える。古来の神道は皇室祭祀を中心に守られ、神々と仏が共存共栄する神仏融合がわが国の宗教の基本となったのである。

聖武天皇は、自らを「三宝の奴(やっこ)と仕えまつる天皇(すめらみこと)」と称されたほど仏教信仰を深め、出家した最初の天皇となる。その熱意がなければ、難事業である大仏造立は国を挙げて取り組んでも成功しなかったであろう。また、光明皇后の自書『楽毅論』に見られる意志の強さや、から風呂に現れた千人目の重病患者の膿(うみ)を吸い取った話に見られる、皇室福祉の先駆けとなった働き掛けも大きかったとされる。
東大寺は大仏造立よりやや古く、『東大寺要録』によれば、大仏殿の東方、若草山麓に733年に創建された金鐘寺(こんしゅじ)が起源とされる。一方、『続日本紀(しょくにほんぎ)』によれば728年、聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提(ぼだい)のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたのが金鐘寺の前身とされる。
5月、奈良盆地は新緑に覆われ、ツツジやフジの花が彩りを添える。ゴールデンウイークの最中とあって、市内は外国人を含む観光客であふれ、鹿たちがせんべいを催促していた。

2日は午前8時から、聖武天皇を祀(まつ)っている天皇殿で「論議法要」が行われ、午後1時から式衆・稚児らによる華やかな練り行列は雨天のため中止になった。式衆行列の様子を、過去の写真で紹介しておこう。
午後1時半から、大仏殿の盧舎那仏の前で「聖武天皇慶讃法要」が営まれた。用意されたいす席には約300人の参列者に交じって観光客らも座り、入り口付近は黒山の人だかりとなった。
まず、花や抹茶などが供えられ、続いて、僧侶らによってお経が唱えられ、奈良市コンシェルジュの女性たちの代表も焼香し、参列者らは静かに手を合わせ、聖武天皇を偲(しの)んでいた。また、鏡池に設けられた水上舞楽台での能の奉納は、雨天のため金鐘ホールで行われたので、少しばかり残念である。
翌3日には「山陵祭」が執り行われ、午前8時に大仏殿を出発した東大寺一山の僧侶らが聖武天皇を祀る佐保山南陵に参拝した。
(文=多田則明)