トップ文化頼朝と義経の決裂 『吾妻鏡』の虚構と史実 偽文書だった「腰越状」

頼朝と義経の決裂 『吾妻鏡』の虚構と史実 偽文書だった「腰越状」

鎌倉の町は頼朝によりこの鶴岡八幡宮を中心に造られた

日本中世文学を専門にする藪本勝治氏の新刊『吾妻鏡』(中公新書)は、衝撃的な研究書だ。鎌倉幕府の正史とされるこの書は、記述の信憑(しんぴょう)性を巡って江戸時代から疑問が提示されてきたが、著者は八代国治(やしろくにじ)の『吾妻鏡の研究』(1913年)以降積み重ねられた研究の上で史実との違いを明らかにしている。

著者はこの書が歴史をどのように語ってきたのかということと、史実はどうだったのかを対比することで、虚偽の傾向と編纂(へんさん)の意図とを明らかにする。多くの話題の中でここで取り上げるのは、決裂することになる頼朝と義経との関係についてだ。

頼朝の命で義経が平家を討つべく元暦2(1185)年2月讃岐へ渡り、屋島、長門と追い詰め3月24日、壇の浦で彼らを殲滅(せんめつ)した。『吾妻鏡』によると、屋島合戦では強行突破による義経の個人行動が勝利をもたらしたとしているが、実態は違っていて、1カ月前から兵糧を準備しながら反平家勢力と連絡を取って準備し、根回しが完了していたという。壇の浦の戦いの勝利も同じく着実な事前工作の成果だった。

4月11日にはその報告が頼朝に届けられ、14日には後白河法皇からお礼と感謝の言葉が伝えられる。そして5月11日、頼朝が戦功で従二位に叙せられたとの報が来る。

ところが『吾妻鏡』では、その4日後の15日、義経が捕らえた平家の当主宗盛を連行して酒匂駅に着くと、頼朝の使者は宗盛を受け取るが、義経は鎌倉に入ってはならないと告げる。鎌倉入り口の腰越に留められた義経が、その怒りを解くために書いたのが「腰越状」だ。

後世に書状の手本として手習いに用いられたが、著者によると内容に不審な点があり、偽文書だという。書かれているのは不幸な生い立ちと合戦の苦労話で、疑惑への弁明になっていないからだ。

腰越にいたのは5月24日のみで、前後の5月16日と6月9日には30㌔離れた酒匂駅にいたとある。偽文書を挿入した際に生じた錯誤の可能性が高いという。

その後、鎌倉に入れなかった義経は謀反を示唆して帰京したとあるが、『愚管抄』や『平家物語』諸本ではこの時、2人は鎌倉で対面しており、こちらの方が事実であるらしい。決裂していれば、頼朝は義経を京に帰さず、拘束・処罰したはずだという。

実際のところ頼朝と義経の関係が修復不可能になるのは後の8月16日、義経が頼朝の推挙で伊予守に任命され、後白河法皇がそれに対して異例の措置を取り、検非違使(けびいし)に留任させてから。弟を自らの統制の下に置きたい頼朝と、強引に自己の軍事力を手元に保持しようとする後白河法皇との間で義経は板挟みになる。決裂はそれ以後のこと。

ところが『吾妻鏡』では兄弟の対立をその1年も前倒しにしている。元暦元(1184)年8月17日、義経から鎌倉へ、後白河法皇からの指示で検非違使に補任されたとの報が届けられる。頼朝は義経が自ら望んだと疑って平家追討の任を解いたという。しかし同じ『吾妻鏡』に8月26日、平家追討の宣旨(せんじ)を得たという記事があって矛盾し、この任官には頼朝の合意があったとみられている。

『吾妻鏡』ではなぜ、義経に悪役を演じさせ、頼朝の怒りを買うように史実を書き換えたのか。この問題で最も得をしたのは北条政子の父、北条時政だったと藪本氏はいう。義経は頼朝と「父子の義」を結んだ御曹司で、頼朝の正当な後継者候補だった。だが、頼朝の妻、北条政子が嫡男頼家を生むと、時政にとって義経は邪魔な存在となった。鎌倉殿の外戚となることを妨げることになる。

頼朝・義経が決裂する背後には北条氏の存在があった。

(増子耕一)

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