
日本人は何処から来たか――。最新のDNA解読からこのテーマに迫る特別展「古代DNA―日本人のきた道―」が東京・上野の国立科学博物館で開かれている(6月15日まで)。「日本人」がどのようにして形成されたのか、そして縄文、弥生、古墳時代の家族や社会の姿にも迫っている。
古代社会の姿は、これまで主に考古学を中心に研究が進められてきたが、古人骨からDNAを解読する技術の進歩によって、ここ数十年の間に飛躍的な発展を遂げた。その中で次々と新しい発見があり、これまでの定説を塗り替えつつある。
古代DNAの解読では、古人骨に残るDNAの抽出・解析技術を確立し、ネアンデルタール人と現生人類(ホモ・サピエンス)の系統関係を明らかにしたスバンテ・ペーボ博士が2022年のノーベル生理学・医学賞を受賞している。博士は今展の目玉の一つ、沖縄県の白保竿根(しらほさおね)田原洞穴(たばるどうけつ)遺跡(いせき)出土の旧石器時代の人骨のDNA解析も進めている。
今展では頭部を含むほぼ全身の白保人骨を展示。その人骨およびDNA情報をもとに顔を復元した復顔が展示されている。
DNA解析によって日本人の基層集団となった縄文人の成り立ちも分かってきた。まずその起源については、旧石器時代の白保のゲノム解析によって、それが縄文人のゲノムに6割ほどが受け継がれ、残りは沿海州の古人骨と類似するものだったことが明らかになった。
縄文人の起源が単一ではなく、複数の経路から列島に流入し、長い時間をかけて列島内で混合したことを示しているという。さらにゲノム解析は、その縄文人も時代による変化はないものの列島の東西でタイプが異なり、縄文時代以前に列島に渡ってきた集団が長期にわたって孤立し、多様な集団を作ったことを示しているという。
形質的には画一的な縄文人も、異なる生活環境に適合しながら、生業、社会構造、精神文化を発展させていった。山間部の長野県栃原岩陰遺跡(とちばらいわかげいせき)、海岸部の宮城県里浜貝塚(さとはまかいづか)の頭骨が展示されているが、山間部は一般に華奢(きゃしゃ)、海岸部は頑丈だった。食べ物の違いによるようだ。
礼文島の船泊遺跡(ふなどまりいせき)の縄文人骨から復元された復顔も展示されているが、顔の形だけでなく、DNA情報をもとに目の色、肌の色、髪の特徴など細かいところまで復元しており結構リアルだ。白保人と比べ今の日本人に近く、どこかでか出会ったような気がするくらい。
ちなみに縄文人のDNAは本土の日本人で10~20%、琉球列島で30%、北海道のアイヌ集団は70%の割合で受け継いでいることも分かっている。
縄文の精神文化を物語るものとしては、土偶のプロトタイプとも言える、早期(1万1000年前)の「バイオリン型土偶」が興味深かった。千葉県の小室上台(こむろうえだい)遺跡発掘のもので、高さは2㌢の実に小さなものだが、女性の乳房と豊かな腰が写実的に表現されている。豊穣(ほうじょう)・多産の祈りのもっとも素朴な形を見るようだ。
現代日本人に直結する弥生人のゲノム解析も進んでおり、骨形態から渡来系の集団と考えられている人骨にも、ある程度縄文人から伝わったと考えられるDNAが存在していることが明らかとなった。さらには、その渡来集団の源流が5000年ほど前に中国東北部の西遼河(せいりょうが)流域の雑穀農耕民であることも分かっているという。
DNA分析は、日本人のルーツを明らかにするだけでなく、古墳に埋葬された人々がどのような血縁関係にあるかなど時代ごとの家族の姿も明らかにしつつある。
(特別編集委員・藤橋 進)