トップ文化「よみがえる神仏習合/融合」 明治政府の「分離」政策から150年 宗教界の新潮流広まる 佛教史学会特別例会

「よみがえる神仏習合/融合」 明治政府の「分離」政策から150年 宗教界の新潮流広まる 佛教史学会特別例会

佛教史学会の総合討論の様子、左から本郷真紹、遠藤潤、ルチア・ドルチェ、吉田一彦の各氏=3月1日、京都市下京区の龍谷大学

明治初頭の神仏判然令による「神仏分離」と、それに伴う「廃仏毀釈(きしゃく)」から150年を経て、宗教界に「神仏融合」の動きが広まっている。去る3月1日、京都市の龍谷大学大宮キャンパスで佛教史学会(会長・原田正俊関西大学教授)の特別例会「よみがえる神仏習合/融合 ―近年における神前の講経・講式再興の動向をめぐって―」が開催された。

古来からの神道をベースに仏教を受容した日本の宗教は「神仏習合」の形態が江戸時代まで一般的だったが、明治政府の政策的な神仏分離により、仏教・寺院と神道・神社との関係は大きく変化した。それから150年、今日、伝統の復興・再生から、あるいは神仏分離の相対化と見直しから、かつての神仏習合(融合)時代に実施されていた儀礼の復興や、離散した仏像・仏画の集積、公開が盛んになっている。

最初に、吉田一彦名古屋市立大学特任教授が「諏訪における神仏の融合・分離と近年の再興の姿」と題し発表。次に、ロンドン大学SOAS/国際日本文化研究センター研究員のルチア・ドルチェ氏が「現代の神仏習合ブーム―京都の神社における『習合』的儀礼を問う―」を、最後に遠藤潤國學院大学教授が「神仏融合からの〈離陸〉―平田国学の場合―」を発表し、本郷真紹(まさつぐ)立命館大学特命教授がコメントし、総合討論が行われた。

近著『神仏融合史の研究』(名古屋大学出版会)でアジア各地の神仏融合を明らかにした吉田教授は、「神仏習合」ではなく「神仏融合」だと主張する。戦前、歴史学の権威・辻善之助が、明治の神仏分離以前の神仏関係を「習合」とし、日本の独自的な宗教現象だとしたことから広く認められてきた。しかし、インドをはじめ中国、ベトナムなどにも同様の現象があり、さらに神仏習合には仏教が主、神道が従との意味合いがあるが、各地の神仏関係はほぼ対等で、それは仏教の寛容性からきており、多少の違いは各地の神信仰の違いによるという。

日本の神仏融合は仏教伝来から200年後の8世紀に始まり、神が仏に救いを求める形で進んだ。これは「神道離脱」や「護法善神」の思想が中国から導入されたため。9世紀に入唐した最澄と空海は中国に倣い神が住む山に寺院を建て密教を広めた。これにより、神社には「神宮寺」が設けられ、神仏が並び信仰される聖地としての山が成立する。次いで、中国から「鎮守」の思想が入り、寺院の境内に鎮守が設けられるようになる。

11世紀、日本の神々はインドの仏の現れとする「本地垂迹(ほんじすいじゃく)説」を創出したのは仁和寺の真言僧で、「垂迹」は中国からの導入。永遠不滅である久遠実成(くおんじつじょう)の仏が肉体を持って現れたのがブッダという法華経の教えで、本質と現象の関係である。一方、「本地」は12世紀、真言密教から生まれた日本独自の思想という。

ドルチェ氏は、八坂神社や北野天満宮などで僧侶が参加する仏教儀礼の復興や習合的法会、近畿における神仏霊場会の創設などを紹介し、これらはシンクレティズム(混淆(こんこう))ではなく寺社のアイデンティティー再定義であると述べた。

本郷教授は、日本に仏教が浸透したきっかけは天皇の病気や疫病の流行で、穢(けが)れを忌避する神道では対応できなかったから。神道は特定の血縁者、地縁者を守るのが中心で、それを超えた共同体づくりのために仏教が導入されたと述べた。

討論では、イギリスにおけるケルトとキリスト教との関係が神仏習合の比較として示され、仏の影響が増しても神々の存在が維持されたことが日本的特徴だとされた。それは、皇室祭祀(さいし)が定まった後での仏教受容のため国のかたちが継承されたことが大きいのだろう。

興味深いのは、本地垂迹説を広めたのはむしろ神道だったこと。地縁に縛られている神社が仏教により普遍性を獲得するためで、以後、有力神社の分社が各地に建立されるようになったのである。

(文・多田則明)

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