神仏習合が生きる神宮寺
独特の作風の仏像たち

福井県南西部の若狭地方は古来、奈良や京都への海産物の供給地「御食国(みけつくに)」として重要な位置を占めた。都から日本海側への最も近いルートに当たり大陸や朝鮮半島への玄関口でもあった。
そんな若狭には、古い寺社が多くある。小浜市だけで文化財指定が250件を超え、そのうち65件が国の重要文化財という。それらは都との強いつながりを持ちながらも、独特の地方色が見られる。若狭地方の中心小浜市の3寺院を巡った。
まず訪ねたのが、「お水送り」で知られる神宮寺。奈良に春を告げる東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)は「お水取り」の通称で知られるが、これは修二会の期間中、境内の若狭井から汲み上げた「お香水(こうずい)」を十一面観音菩薩像に捧(ささ)げることにちなむ。そのお水取りの10日前、毎年3月2日に行われるのが「お水送り」の行事である。
神宮寺境内の「閼伽井(あかい)」で汲み上げた水を行によって清め、寺僧が中心となって松明(たいまつ)を手に守護しながら2㌔離れた「鵜(う)の瀬」という川原に運んで流すのである。水は10日間かけて東大寺の若狭井にたどり着くと伝えられる。若狭にはかつて東大寺の寺領があり、開祖、良弁(ろうべん)は若狭の人との伝説もあって、強い結び付きがある。
縁起によると神宮寺は、和銅7(714)年、元正(げんしょう)天皇の勅願により泰澄(たいちょう)の弟子、沙門滑元が開山。鎌倉初期に若狭彦神社別当寺神宮寺と改名した。今も神像が祀(まつ)られ神事を執り行う神仏習合の天台宗寺院だ。お寺の案内の栞(しおり)には、同寺も明治期の神仏分離の難に遭ったが、神像は身代わりを出して秘蔵したと書いてある。その神像は拝むことができなかったが、仁王門そして本堂には、通常神社で見るしめ縄が張られ神仏習合が生きていることが実感できた。

本堂と三重塔が福井県で唯一国宝建造物に指定されている明通寺は、真言宗御室派(おむろは)の寺院。大同元(806)年、征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、亡くなった蝦夷(えみし)の鎮魂と天下泰平を祈願して創建したとされる。山の麓から石段を上ると、桧皮葺(ひわだぶき)の本堂があり、その奥に三重塔が控えていた。古色蒼然とした堂塔を清浄な空気が包んでいる。
本堂に入ると、寺僧が解説をしてくれた。本尊は藤原時代の薬師如来坐像で、その脇侍(きょうじ)には、左側に降三世明王(ごうざんぜみょうおう)、深沙大将(じんじゃだいしょう)が固めている。「普通薬師如来の脇には日光菩薩と月光(がっこう)菩薩が並んでいますが、この組み合わせはまれで、特に深沙大将は全国で4体しかありません。専門家によると若狭の仏像は皆ここで造られたもので、都とは違った作風が見られるといえます」。京都や奈良から来た人たちはそれを気に入ってくれるという。
最後の羽賀寺は、彩色が今も残る十一面観音菩薩立像が有名だ。かつてこの地は、鳳凰(ほうおう)が飛来して羽を落としていったことから羽賀の地名が生まれ、「鳳聚山(ほうしゅうさん)」の山号が付けられた。この寺も元正天皇が行基に命じて霊亀(れいき)2(716)年に創建されたとされる。本尊の十一面観音菩薩は長年秘仏とされていたため、彩色がよく残っている。桧(ヒノキ)の一木造(いちぼくづくり)で元正女帝の御影との言い伝えがある。
案内の人の勧めで、内陣に入り間近にそのお姿を拝見した。ふっくらとした顔立ちは、穏やかで気品に満ちている。仏様にしては生身の人間にも近い感じがする。かつての山口百恵さんにも似ているような気もする。
何より冠や天衣の赤や緑の鮮やかな彩色には驚く。これが本来の天平の美ではないか、とも思う。地元の人は「若狭一のべっぴんさん」と慕っているらしいが、記者にとっても若狭の古寺巡りのハイライトとなった。
(特別編集委員・藤橋 進)






