富士講の集合場所

富士登山が江戸で盛んになるのは富士講によるもの。その教えが広められ、広い地域で組織化されるようになる六世食行身禄(じきぎょうみろく)の時。吉田口七合五勺(しゃく)の烏帽子(えぼし)岩で31日間の断食をし、中心経典となる「三十一日の巻」を口述。終わるとその場で享保18(1733)年、息を引き取ったという。
それが江戸の瓦版に掲載されると驚くほどの勢いで信者が増えていった。五つか六つの町ごとに講がつくられ、江戸八百八講といわれた。講の人数は30人から50人で、多い時は200人にも。山で混雑しないように相談してスケジュールを調整し、経験ある指導者がこれを率いた。
出発地は講もとの家や神社の境内。富士塚もつくられた。千駄ヶ谷の鳩森八幡神社の富士塚は最も古いもので寛政元(1789)年の築造。土を盛り上げて山をつくり、頂上には富士山の溶岩を配置。登山道もそっくりに自然石でつくり、頂上に奥の院、7合目の洞窟に身禄像を安置、麓には里宮を建てた。
1923年の関東大震災で崩れたが、修復されて、初めの姿をとどめている。東京都指定の有形民俗文化財。小さい山だが登る人も結構いて、頂上に立つと境内が一望され、山の趣がある。
(増子耕一)





