万葉調の雄渾さと近代性
人々の生業、小動物にも関心
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アララギ派の歌人で、小説『土』などで知られる長塚節(たかし)は、35歳の若さで亡くなるまで全国津々浦々を旅した。茨城県の大地主の家に生まれ、政治家であった父に代わって農業経営にいそしむ傍ら、事情が許せば旅に出た。そして旅先で珠玉のような歌を詠んだ。
節は「旅行に就いて」という文章の中で、「余は旅行が好きである。年々一度は長途の旅をしなければ気が済まぬやうになった。兎に角全国歩いて見たい積もりで地図の上に朱線の殖えるのを楽しみの一つにして居る」と書いている。その旅は「時には汽車や汽船の便を借りることもあるが、大抵は徒歩」であった。
大概、夏から秋の初めに行くが、これは旅装を軽くするためであった。脚半(きゃはん)に草鞋(わらじ)履き、衣類や地図、雑記帳など最低限の荷物を二つの包みに分け肩に掛け、背中に蓙(ござ)を着る。笠(かさ)も必需品で旅行ごとに求めてその記念にした。
常総市にある節の生家前には、旅装の節の銅像が立っている。明治39年、佐渡旅行から帰って来た時撮った写真を元に造られたという。その写真を見て、節の師である正岡子規の同じような旅の写真を思い出す。子規も大の旅行好きで、結核で病床に臥(ふ)すようになるまで、よく旅をしたが、節の旅好きは子規の影響もあるようだ。
明治36年7月下旬から1カ月近く、節は近畿地方を旅し、「西遊歌」56首を録している。「万葉集」の舞台、奈良の三輪山を訪れ、「三輪の檜原のあとといふを、山守にみちびかれてよみける」と詞書し<櫛御玉大物主(くしみたまおおものぬし)の知(し)らしめす三輪(みわ)の檜原(ひはら)は荒(あ)れにけるかも>などと詠んだ。
熊野にも足を運び、<眞熊野(まくまの)の熊野(くまの)浦ゆてる月のひかり満(み)ち渡(わた)る那智(なち)の瀧山(たきやま)><熊野川八十瀬(くまのがわやそせ)を越えてくだりゆく船(ふね)の筵(むしろ)にさねて涼(すず)しも>などと詠んだ。
明治38年にも関西地方を訪れ、明石の浜辺で鰯(いわし)漁を見ている。
<明石潟(あかしがた)あみ引くうへに天(あま)の川淡路になびき雲の穂に没(い)る>
<茅渟(ちぬ)海うかぶ百船八十船(ももふねやそぶね)の明石(あかし)の瀬戸(せと)に眞帆(まほ)向ひ来(く)も>
明石海峡では、万葉歌人、柿本人麻呂が「羇旅歌八首」の中で、「天離(あまざか)る夷(ひな)の長道(ながじ)ゆ恋(こ)ひ来れば明石の門(と)より大和島見ゆ」の名歌を残している。明治時代の節は、鰯の大漁に沸き、沢山(たくさん)の船が行きかう近代の明石海峡を万葉調の雄渾(ゆうこん)な叙景歌として詠んだ。
この年は木曽も旅している。<木曽人(きそびと)の朝の草刈(か)る桑畑(くわばた)にまだ鳴きしきるこほろぎの声>
自身が農業に携わっていた節は、旅先でも農民や漁民の生業に自然と関心がいったようだ。また魚や昆虫など小動物にも鋭い観察眼と繊細な感受性を働かせている。
同年、諏訪の霧が峰に登った時の一首。<立石(たていし)の山こえゆけば落葉松(からまつ)の木深(こぶか)き渓(たに)に鵙(もず)の鳴く声>
羇旅(きりょ)のやや心細い気持ちがあるからこそ、一層、小動物の声や姿に共感や慰めを見いだすのだろう。
節の繊細な感受性が捉える旅情は、子規から学んだ写生によって、実感と深さを備えるものとなった。
(特別編集委員・藤橋進)