トップ文化キリシタン弾圧と初代宗門改役・井上政重

キリシタン弾圧と初代宗門改役・井上政重

殉教より「背教者」に追い込む

強制棄教の指南書遺す

井上政重像。右は井上によって捕縛され殉教したペトロ岐部(大分・国東市のペトロカスイ岐部神父記念公園)(石丸志信氏撮影)

井上筑後守政重。江戸時代初期の旗本で後に大名となった。日本史ではなじみのある人物とはいえないが、キリシタン弾圧に辣腕(らつわん)を振るった初代の宗門改役(しゅうもんあらためやく)である。東京・文京区小日向(こひなた)の閑静な住宅街の一角に、キリシタン屋敷跡と呼ばれる碑がある。井上の下屋敷、いわゆる転びバテレンの収容所跡だ。

その棄教・改宗への仕置きは苛烈を極めた。代表的なのは地面に穴を掘り信者を逆さ吊りにし、すぐに死なないよう息のあるうちに転ばせる「穴吊り」の刑だ。その一方で慰労の言葉をかけ、女性をあてがうなど懐柔して棄教・改宗させる硬軟両用の尋問を行った。その残忍かつ老獪(ろうかい)な手法は、米国の歴史学者ジョージ・エリソンをして「井上はその知的で悪魔的所業という点でアドルフ・アイヒマンと同じような感覚の持ち主だった」と言わしめた。

井上は島原の乱で上使となった松平伊豆守信綱の相談役として島原に赴き、乱後の采配に大きな役割を演じた。このため初代の宗門改役としてキリシタン弾圧の最高指揮官となったのである。

しかし、井上はただ取り締まり一辺倒ではなかった。長崎と江戸を往来し、将軍および幕閣に報告してその禁教政策の徹底を図った。同時に当時唯一通商を許されたオランダの歴代商館長などから積極的に海外情報の入手に努めている。その意味では単純な排外主義者ではなく幕府対外政策において枢要な位置にいたのである。当時、スペイン、ポルトガルなど西欧列強がアジア方面に盛んに進出した時期であった。日本でも通商交易の一方で、宣教に乗じた日本植民地化が徳川幕府でも懸念されたことは確かだ。

宗門改の制度はキリスト教禁制が解除された明治6年まで続く。それまで井上が口述書として遺(のこ)した棄教・改宗マニュアルは、「契利斯督(キリスト)記」として歴代宗門改役の指南書となった。例えば<なぜ神が天地創造したのなら、かくもその力が及ばないのか><おのれが作りたる世界の人間を悪道へ落としながら、一方でその人間を助けるべきという教えを広めるというのは首尾一貫しない>などと、キリシタンに対しては教義やその世界観に対する疑問を徹底して詰めて棄教させよとある。

「井上筑後守の方針は一言でいえば、殉教者ではなく背教者をつくれということであった。そのため彼もまず“洗脳”に手を尽くして彼らを説得しようと努めた」(『キリシタン時代の日本人司祭』ドイツ人神父H・チースリック)

儒学者である新井白石が日本に潜入してきた宣教師ジョン・シドッチを尋問した記録が『西洋紀聞』にある。シドッチは後に転向はしなかったがキリシタン屋敷で生涯を過ごす。尋問で白石は、シドッチという一人の人間に「賢者」と「愚者」の二人の言を聞く思いがしたという。つまり前者はシドッチの人文科学上の知識と世界情勢に関する広範な認識であり、後者はそれを伝えるためにわざわざ日本に潜入して来たキリシタンの教えだ。

作家の山本七平氏によれば、白石にとって一体なぜキリシタンがいけないのか。儒教を基にした日本的序列的集団主義に反するからであり、もし、それを認めれば一切の秩序が崩壊するからという。「明治以来、否、白石以来、われわれは専ら彼らのうちの『賢なりと見た部分』にのみ目をとめ、『愚かなりと見た部分』は棄却して今日に至った」とした上で、「その鎖国哲学は今も日本を拘束しているといえる」(『「空気」の研究』)と評した。

(論説顧問・黒木正博)

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