院内石―優しい自然美と肌触り
秋田県湯沢市の院内(いんない)と言えば院内銀山で有名だが、江戸時代中期から明治~昭和の初めにかけて切り出された「院内石」は全国に販売され敷石や塀、石蔵などに重宝された。大谷石や十和田石とともに有名だった。
採石場跡は3カ所あり、その一つはコロリ地蔵尊・愛宕神社(あたごじんじゃ)の裏手方向で、11月中旬訪れた。
JR院内駅から徒歩15分ほど、車なら少々悪路だが狭い駐車スペースにたどり着く。
右の道を下ると大きな切り通しがあり、その先に壮大な規模の採石場跡が現れた。山腹を切り開いた露天掘りで、数十㍍もの垂直の白い崖がそそり立つ。元の駐車場に戻り今度は左の道を登ると採石場の上に出た。よくもこれだけ深く切り出したものだ。
本格的な採石が始まったのは約200年前の江戸時代中期から。院内銀山が栄えた時代には、その耐火性と耐水性から製錬所や溶鉱炉、建物の土台に切り出された。
もともと、この院内の町は盆地状で、直径約6㌔㍍の火山の跡(カルデラ)の中にある。熊本の阿蘇と比べると長さ的には4分の1ほどだが、約580万年前から320万年前に3度にわたり大噴火が起き、陥没と噴火を繰り返して厚さ400㍍から600㍍もの火山灰が固まってできた凝灰岩が蓄積された。
灰白色から白色で、素朴さの中に気品が漂い、天然石が持つ肌触りや安らぎが好まれた。また軽石質のため加工しやすく、耐圧や断熱性に優れコンクリートよりひび割れが少ない特徴を持つ。豪雪地帯である湯沢地域の生活に合った優れた石材だった。
今でも院内神明社の石段、元院内町役場倉庫が残っている。地震の揺れにも強く、明治天皇が院内銀山を訪れた際に滞在した斉藤家の石壁は140年経過しても現役だ。
しかし、昭和30年頃からセメントブロックが出回り、さらに39年の新潟地震で耐震対策として建築土台はコンクリート一体構造とする建築基準法の改正が行われ、急激に院内石の採石業は衰退していった。
(伊藤志郎)