トップ文化仁藤敦史著『加耶/任那―古代朝鮮に倭の拠点はあったか』

仁藤敦史著『加耶/任那―古代朝鮮に倭の拠点はあったか』

倭系加耶・百済人の存在に注目

皇国史観、韓国民族史観の克服目指す

仁藤敦史著『加耶/任那 古代朝鮮に倭の拠点はあったか』(中公新書)

古代朝鮮半島南部に存在した加耶は日本書紀などで任那(みまな)と表記され、日本とも関係の深い国家群だ。戦前から戦後の一時期までは、かつて日本が「任那日本府」を置いてこの地域を支配したというのが定説だった。戦後の歴史学会では、韓国や北朝鮮の学者を含む異論が提出され、今も論争の的となっている。

本書はこの日本との関係を正面に据え、加耶史の大きな流れと著者の見解をまとめたものだ。

『日本書紀』そして中国・集安の高句麗広開土王碑には、4世紀から5世紀、大和王権が渡海し朝鮮半島で軍事活動を展開したことが記されている。中国の史書にもそれを裏付ける記述がある。とくに広開土王碑には391年、倭は百済、新羅を攻め、「臣民」にしたとの記述があり、大和王権の朝鮮半島南部支配説の根拠とされた。

著者は、この広開土王碑文や『日本書紀』の対韓関係記事のよりどころとなっている「百済三書」の引用内容を批判的に検討。史実と潤色、誇張部分を細かくえり分けるなど、精緻な史料批判から史実に迫ろうとしている。

そういう中で、渡韓して以降、現地に住み着き、加耶や百済の官人となった倭人や倭系官人の存在に注目しているのが本書の特徴の一つだ。全羅南道の栄山江周辺に多数見つかっている前方後円墳からは、倭系の遺物も出て注目を集めている。この被葬者についても倭系百済官人との見方を示している。

また最大の争点である「任那日本府」についても、大和王権の出先機関とする戦前からの説を、日本府が大和王権の意向通りには動いていないことなどから、明確に否定。倭からの使者、倭系加耶人を指すとの見解を示している。百済、新羅、大和王権との外交関係も細かく分析し、なるほどと思わせる。ただ、それですんなり納得できるほど簡単ではないが。

「あとがき」にあるように、韓国側には政治的配慮や民族感情から、いまも大和王権の朝鮮半島での活動はできるだけ少なく見積もる議論が多い。これに対し著者の立場は、「皇国史観、韓国民族史観を超えて」という帯の文句に端的に示されている。感情や忖度(そんたく)を交えず歴史の真実に迫る作業が着実に進んでいると感じさせられる一冊だ。

(特別編集委員・藤橋進)

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