トップ文化“没後弟子”道 貫いた西村賢太

“没後弟子”道 貫いた西村賢太

長編『雨滴は続く』、新刊『蝙蝠か燕か』を読む

西村賢太著『蝙蝠か燕か』『雨滴は続く』(共に文藝春秋刊)

全集・作品集刊行に最後まで尽力

人生変える力持つ文学

昨年2月に急逝した西村賢太の短篇集『蝙蝠か燕か』(文藝春秋)が出た。「文學界」に連載し完結の一歩手前で未完に終わった大作『雨滴は続く』(同)と合わせて読んで、この「破滅型」と言われる私小説作家の到達した世界と、その原点に改めて触れることができた。

西村氏は不遇な青年時代、大正期の私小説作家・藤澤清造と出会う。清造は貧困と病苦の中で、最後は芝公園の東屋(あずまや)のベンチで凍死した不遇の作家だが、その敗残の人生と作品が西村氏の生きるよりどころとなる。

清造の“没後弟子”となり、「そのために人生を棒に振る」覚悟を固めた西村氏は、清造の出身地、能登の七尾の菩提(ぼだい)寺に毎月の月命日に墓参する一方、藤澤清造全集の刊行を決意、校訂や伝記執筆のための資料集めに励む。その一方で、没後弟子の資格を得るために自ら私小説を書き始めた。

『雨滴は続く』は、西村氏の作品ではおなじみの北町貫多(著者本人の小説中の名前)の同人雑誌に載せた作品が、商業文芸誌に転載されることが決まったところから始まる。そこから遂には芥川賞候補になるまでが書かれているが、創作活動の傍らで風俗嬢や岡惚(おかぼ)れした地方新聞記者など女性を巡り一喜一憂する姿が戯画的に描かれている。

何度も笑わされたが、身勝手な自身の行動と心の底を冷めた目で見、それを赤裸々(せきらら)に語ってのけている。その突き抜けた感じが、他の作家のまねのできないところである。

これまであまり小説化されたことのない編集者との微妙なやりとりなども興味深い。古くから出入りしている古書店「落日堂」店主との会話は、事あるごとに出て来る江戸っ子言葉の啖呵(たんか)とともに落語を聞くような面白さがある。最後はその店主と大喧嘩(おおげんか)し悪罵(あくば)の限りを吐いて、暴力沙汰となる。このあたりは落語の長屋噺(ながやばなし)では済まない激しさがあるが、悲惨な中にも不思議なユーモアがあると西村氏がいう清造文学の持ち味を、自身が受け継ごうとしたように見える。

西村氏は2011年に『苦役列車』で芥川賞を受賞し、受賞会見での「風俗」発言などが話題となり、世の「下流」ブームもあってブレークする。一方で、カラー刷りの立派な内容見本まで作った藤澤清造全集の刊行は一向に始まらなかった。記者(藤橋)などは没後弟子としての決意を放棄したのかと思っていたが、そうではなかった。

『蝙蝠か燕か』には、一時期の停滞はあったものの、西村氏が清造全集刊行のために決意を新たにし取り組むまでの歩みが描かれている。

表題作『蝙蝠か燕か』では、全集以外に、清造の代表作で新潮文庫で復刊され、その後絶版となった『根津権現裏』の角川文庫での再文庫化、講談社文芸文庫から短編集と随筆集を出すために校訂・解説執筆などに取り組み、出版実現のために清造を凌(しの)ぐねちっこさで、編集者と交渉したことが語られている。

小説としての面白さはやや欠けるが、それを犠牲にしてでも、西村氏は没後弟子としてのマニフェストを行ったように見える。この作を読むと、西村氏の“師”藤澤清造への思いがいささかも揺らいでいなかったことが分かる。

1人の作家への親炙(しんしゃ)が西村氏のような献身の形になるのは極めて特異なことかもしれない。しかし、破滅型とはいえ生きる動機を与えられたことが、その根底にある。文学は消費されるだけのエンターテインメントではなく、人生に決定的な影響を与え得るということを、この“師弟関係”は物語っているように思われる。

(特別編集委員・藤橋進)

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