戦後活躍した移民作家がテーマ
芸術的覚醒をもたらしたパリ

フランスは世界中から多くの移民を迎え入れ、アラブ系移民はフランスの人口の1割に達する約600万人が暮らし、ユダヤ系は60万人で、いずれもヨーロッパ最大のコミュニティーを形成している。かつてコスモポリタンの町と呼ばれたパリには外国人居住者が今も多い。
パリ12区のポルト・ドレにある移民歴史博物館では今、1945年から72年までフランスで活躍した移民作家の「パリ、どこにもない」展(1月22日まで)が開催されている。パリといえば、ピカソやモディリアーニなどの外国人が活躍した19世紀後半から20世紀初頭のエコール・ド・パリが有名だが、同展は戦後のパリで活躍した作家をテーマにしている。
移民たちの出身国は中央ヨーロッパ、中東、アフリカで、中には戦後、出身国とフランスを行き来しながら活躍したセネガル出身のイバ・エヌディアナもいる。これらの作家はほとんどが他界しているが、時代は芸術発信地がパリからニューヨークに移った頃というのも興味深い。
パリは大革命後の19世紀、産業化と近代化の中でヨーロッパ中から才能あふれる芸術家が集まり、互いに刺激し合いながら、さまざまな芸術の挑戦が行われた。実際に世界的巨匠となった芸術家の多くはアメリカの資金力なしでは語れないものがあったが、多様な文化を持つ外国人たちに芸術的覚醒をもたらしたのはパリの力によるところが大きい。
そのエコール・ド・パリの時代は過ぎ去り、戦争で荒廃したヨーロッパは戦後の東西冷戦期に入り、パリよりニューヨークの方が世界の芸術家たちに魅力を与えた。そんな時代にも国立美術学校のボザールや私立美術アカデミーは外国人に対して寛容で、パリの画廊には前衛芸術を擁護する雰囲気があった。
同展では、亡命、出身国との交流、道標(みちしるべ)の再構成、共通の世界の四つのテーマで構成されている。例えば、モンテネグロ出身の芸術家ダドは人生の大半をフランスで過ごしたが、罪のない子供たちまで虐殺されたモンテネグロの光景が脳裏に焼き付く経験から作品を描いた。
中国・北京出身のザオ・ウーキーは1948年にパリに移住し、当時、フランスを席巻したアンフォルメルの運動の勢いに乗って、水墨と抽象が合わさった作品で世界的に認知された。彼の作品は2017年、香港クリスティーズのオークションでアジア人最高額を記録した。
興味深いのは、フランスで戦後活躍した作家たちが、出身国の自分のアイデンティティーを深めていることだ。ヨーロッパという異文化、外国人に寛容なフランスの環境の中で、フランスに凝縮された西洋美術に浸りながらも、自分の中に流れる出身国の血を再確認し、それが作品に反映されていることを誰も否定していないことだ。
これはダイバーシティーから生まれる国境を越えた普遍性につながる重要な要素として、今の時代にも十分、通じるものがある。芸術はつまるところ、まねをすることではなく、自分自身を深めていくことにあるということが良く理解できる。
(安部雅延)





