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文化サロン主宰した新宿中村屋創業者、相馬黒光


国際交流も進めた女流文人、女性の社会進出にも活躍

文化サロン主宰した新宿中村屋創業者、相馬黒光

洗礼を受けた当時の相馬黒光=仙台文学館提供

 明治6(1873)年にキリスト教が解禁となって以降、キリスト教は国民の間に急速に普及し、人々の生き方に大きな影響を与えたが、その一人に、新宿中村屋を創業した相馬黒光(こっこう)(明治9年~昭和30年)がいる。

 文化サロンを主宰したり、国際交流や女性の社会進出にも活躍した。彼女の書簡や著書は、明治時代を生きた女性の姿を知る上で、格好の資料となっている。

 黒光は旧仙台藩士の娘で旧名を星良(りょう)といった。12歳で仙台市内の高等小学校に進んだが、神学校(第2次大戦時に焼失)が近かったので、日曜学校に通ううち洗礼を受け、16歳の時宮城女学校へ入学した。

 在学中の明治25年2月、上級生が日本で最初といわれるストライキ事件を起こした。時の校長、ミス・ブルボーがアメリカ式の画一教育を施したが、それを不満として、5人の女生徒が英文による建白書を出したのだ。中心人物・斎藤お冬(明治・大正期の著名な英語学者の妹)は、退学して明治女学校へ進んだ。

 黒光はかねて明治女学校に憧れていたので、直接関わりはなかったが、この事件を機に宮城を去り、ひとまず横浜のフェリス学院へ。そして明治28年、巖本善治が校長を務める明治女学校へと転学した。黒光は島崎藤村、青柳有美から英語を教わる。

 巖本からは「才鋒(鋭い才気)」への戒めを受け、後に『女学雑誌』に寄せた作品の筆者名を「黒光」(光を包むの意)として掲載するようになる。

 以後「良」は家族内だけの呼び名となった。日本基督教会の牧師だった島貫兵太夫は黒光を妹のようにかわいがり、「アンビシャス・ガール」と呼んで、やはりキリスト教徒で長野県安曇野村出身の相馬愛蔵を黒光の将来の結婚相手として紹介した。

 明治30年、22歳の時愛蔵と結婚、安曇野で新たな生活を始めた。明治34年、夫妻は東京帝大前の中村屋を譲り受け、パン屋を創業。黒光は職業婦人の先駆者だった。パン屋の起業とその成功、一流企業へと発展させ、実質的なオーナーでもあった。

 その中村屋サロンは、新進芸術家が集う新たな文化空間を現出し、文化史に大きな足跡を残した。その発端は、穂高時代から関わる「東洋のロダン」荻原守衛(碌山(ろくざん))の中村屋出入りだった。また夫妻は身をていして国際交流を実践し、ロシアの盲目の詩人エロシェンコとの交流などが知られる。

 黒光はじめ当時の学生が友人、知人らと交わした多くの書簡が一冊にまとめられ、現在、宮城女子学院大学(仙台市)に残されている。仙台文学館(仙台市)によれば「彼らの書簡は、明治期の地域史や、女学校の様子のほか、新たに入ってきたキリスト教文化への若者たちの考え方、明治維新後に自ら道を模索し交流していった様子など、いろんなことが知られる大変貴重な資料」という。

 『広瀬川の畔』(昭和14年刊)は黒光の半生の回想録だ。士族の没落と、悲惨な生活苦と闘う母、黒光の幼時の姿を女性らしい繊細な筆致で生き生きと描く。

 また作家・文芸評論家の臼井吉見は、彼女の他の著作も取材して中央公論に『安曇野』を書き、黒光を主人公に明治の文学史、女性史を浮き彫りにしている。

(市原幸彦)