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「自分は苦労したことがないから」という…


 「自分は苦労したことがないから」という理由で、夏休みに北海道の酪農家へ働きに行った女子学生がいた。1970年ごろ、高度成長期のことだ。聞いてビックリしたのを覚えている。

 苦労など、なるべくであれば避けたいはずなのに、「自分にはそれがないから敢(あ)えて体験する」という発想が、それまでの常識とは異質のものに見えたのだ。

 が、早朝から長時間続く酪農の仕事は想像以上に厳しく、予定期間を残して東京に帰って来た。だがそれを笑う気になれなかったのは、「自分には苦労が欠けている」という考え方には、それなりに真剣なものが感じ取れたからだ。

 半世紀ぐらい前のその頃から「苦労のなさ」を自覚する若者が徐々に増えてきたようだ。無論そこには、経済成長による社会全体の豊かさがある。テレビ番組では、お笑い芸人らにことさら過酷な課題を課して競わせている。苦労は今や、娯楽の重要な要素だ。それを楽しむ視聴者がいる限り、この流れは続くだろう。

 半面、21世紀の今も、苦労のない人生なぞどこにもない。そもそも、苦労する人のない人類史も存在しなかった。それは人生それぞれにピッタリ張り付いていて、これまで人間は免れたことがない。

 「苦労がない」といっても、ある種の苦労がたまたまなかっただけで、別種のものはしっかりと残っている。中身や形を変えながらも、この世の苦労は、遺憾ながら人類と共に今後も続くもののようだ。