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「長閑(のどか)さに無沙汰の神社廻りけり」…


 「長閑(のどか)さに無沙汰の神社廻りけり」(太祇)。春は長閑で眠気にとらわれることが多い。中国・唐時代の詩人である孟浩然(もうこうねん)の「春眠暁を覚えず」という詩句の通りだ。

 多くの文人が、桜の花が咲き誇るこの時期に死ぬことを望んだ。西行は「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃」(「山家集」)と詠んでいる。

 5日に死去した詩人の大岡信さんの長男で作家の玲(あきら)さんは「西行の歌のように桜の季節に亡くなった。幸せな人生だったと思う」と話していた(6日付読売新聞)。大岡さんは生前、「僕は柿本人麻呂や紀貫之を昔の人と思えない。友人に思えてならない」と語っていたという。西行に対してもそうだったのだろう。

 桜の花には不思議な力があるように感じる。先日、東京・市ケ谷近辺の桜並木を見てきた。風で少しずつ花が散り始めていたが、街を歩く人々の顔がどこか輝くような印象だったのも、桜の魔法がかかっていたからか。知人や友人との久しぶりの会合も、いつになく遅くまで会話が弾んだ。これもまた桜の故だろう。

 桜を愛した西行が入寂したのは、釈迦(しゃか)涅槃(ねはん)の日と言われている。事実かどうかは別として、そう信じたくなるほど、この時期は不思議な時間が流れている。

 昭和51(1976)年のきょうは、白樺派の小説家だった武者小路(むしゃのこうじ)実篤(さねあつ)が死去している。大らかで人間愛に満ちた作品や詩を書いた実篤も、桜の季節に亡くなった幸福な文学者だと言える。