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自分のことを「バカ」と思ったことが生涯…


 自分のことを「バカ」と思ったことが生涯一度もない人は少ないだろう。作家・文芸評論家の伊藤整(1969年没)は、亡くなる前日に「俺はバカだ」と何回か呟(つぶや)いたという。息子の伊藤礼氏(英文学者)が回想している(桶谷秀昭著『伊藤整』新潮社)。

 桶谷氏は「自分のしてきたあらゆる事の根底に抜きがたい過誤がある」と指摘する。真相も詳細も不明だが、そう呟いたとすれば、明瞭な意識の中でその言葉が出てきたことは確かだ。

 似たようなエピソードは森鴎外(22年没)にもある。これも死の直前、鴎外は「バカバカしい」と呟いた。ただし、これはうわ言であったという。長男の森於菟(おと)が、父の死後24年たって明らかにした。

 伊藤は「自分はバカ」と言ったのだから主語は明確だが、鴎外は単に「バカバカしい」と言っただけなので、バカなのが誰かは分からない。

 「周囲の世界がバカ」ともとれるし、「自分がバカだった」とも解釈できる。バカな世間にさんざん付き合ってきた自身がバカだったとも言える。そう言えば鴎外は、気難しい半面、周囲に対しては意外に気遣う人だったと言われる。

 伊藤のケース以上に「バカ」の中身は分かりにくいが、人間誰しも自身の来歴を振り返った時に「バカ」という言葉でしか表現しようのない何かを多量に抱えているものらしいことは分かる。死を目前にした2人の文学者の「バカ」発言は、人間の実相を正直に示したものと思えてくる。