トップコラムいにしえの日本を考える(12) 道徳と信教を考える 正しい倫理観で修身を

いにしえの日本を考える(12) 道徳と信教を考える 正しい倫理観で修身を

 前回は「道徳教育の問題点」をテーマに「道徳」や「倫理」、「修身」について考えてみました。私たちはこれらの言葉の定義をしっかり弁別しないまま使っていると思います。今回はさらに深く「道徳」と「信仰」「宗教」との関係などを考えてみたいと思います。皆さまのご感想や反論を心よりお待ちしております。

■「道徳」はどこから

 「道徳」「倫理」「修身」はどのように形成されていくのでしょうか。本来、これらの言葉が指す概念は外から強制され与えられる義務などではなく、より豊かに強く生きていくための内発的な知恵でした。そして、その内発的な自覚のためには、信仰と宗教は不可欠だと私は考えています。

 壊れかけている社会規範を立て直すために、「道徳」という名のうわべのルールを上から教育で押し付けても意味がありません。家を建てるときに地盤や基礎工事が不可欠であるように、道徳社会にもそれを支える強固な「心の土台」が必要です。その土台になるものが「信仰」と「宗教」だと私は考えます。

■信仰と宗教の重要性

 「道徳」「倫理」「修身」の土台の最下層に位置すべきものこそが、「信仰」です。信仰とは「見えない存在への畏敬の念と感謝」です。ここでいう信仰とは、特定の宗教団体への所属や特定の教義を盲信することではありません。「自分という存在は見えない大いなる力(天・神・仏・大自然など)によって生かされている」という人智を超えた存在に対する畏怖畏敬の念を指します。これらは人間の謙虚さを生みます。しかし、現代の日本にとって、この畏敬の念が失われつつあるのは事実です。

 信仰の上に、「宗教」が人間の生き方や在り方、宇宙や自然の法則などを示します。宗教では、われわれがいろいろな因縁の中で生まれ死んでいく無常や、人(先祖や両親など)とのつながりへの感謝についても説かれています。これらを「おかげさま」と日本では日常的に使ってきました。長く親しまれてきた日本独特の美しい言葉です。

 「見えないものへの畏敬の念」の土台である信仰と「世の中の理(ことわり)」を説いた宗教、さらにそれらを補完する「智慧(ちえ)」が加わります。智慧とは、人や知識との出会いや学びのことです。具体的には書物、学習、経験、稽古などを指すと思います。必要な知識や哲学、経験が重なることでさらに人生に深みが増します。

 「信仰」と「宗教」と「智慧」が合わさった時に、自省や自覚が生まれます。「誰も見ていなくても、お天道様が見ている。自分は正しく生きているだろうか」「天や神、そして先祖に対して恥ずかしくないだろうか」「おかげさまで生きている自分は人のために役立っているだろうか」などと人は一人でいるときも自らを律する「慎独(しんどく)」の心を持つことができます。「すべての命は尊い源から分かち与えられたものである」という霊的な自覚があるからこそ、損得勘定を超えて他者を思いやる無条件の利他や倫理観が生まれるのだと思います。

■倫理から修身へ

 「信仰」と「宗教」と「智慧」が重なると自覚と共に自省を経て自分の生き方の原理原則が定まります。それを「自分の倫理観」と言うのだと思います。倫理とは、生きるための自分の原理原則であり、真善美(自分の美徳)なのです。そして、自分の倫理観は、自らつくり出すものなのです。しかし、近現代では「倫理観」や「道徳」という建前で世間の正義を押し付けられるようになりました。

 倫理の次が「修身」です。儒教の五経「礼記」の大学にある「修身斉家治国平天下(しゅうしんせいかちこくへいてんか)」から取られた言葉です。「天下国家や政治を語る前に自分自身を修めろ」という厳しい言葉です。修身とは、自分の倫理に基づいて、自分自身の感情や欲望をコントロールし、人格を磨き上げるための実践を指します。

■居心地の良い道徳社会

 自分の原理原則、倫理観に基づいて自分を律することが「修身」です。ですから修身を行うには「自分の倫理観」が不可欠になります。倫理のないところに修身もないと言ってもよいでしょう。頭の中で整理された「自分の倫理」を実際に社会で実践行動し生きていくことが「修身」になります。頭(心)と体(実践)が伴うことが大事なのでしょう。しかし、近現代では自分よりも他人をコントロールするために利用されました。

 ここで注意したいのは、正しい倫理観に基づき、正しい実践「修身」を行うことが大事だということです。独りよがりで、他人を不幸にするような生き方は、誤った倫理観に基づくものです。例えば、窃盗、殺人、詐欺などの犯罪や悪事を是とする考えです。また、自分の原理原則のためには、他人に迷惑をかけたり、他人を不快にさせたりしても何とも思わないようでは困ります。さらに、自分の倫理観を絶対正義だと思って押し付けるのも考えものです。

 「信仰」と「宗教」と「智慧」から、自分も他者も敬う正しい「倫理」が生まれ「修身」を正しく実践する人が増えると、その結実として良い「道徳的社会」が成り立つのではないでしょうか。お互いを思いやる社会が形成される状態を「道徳のある社会」と呼べるのではないでしょうか。

 道徳は押し付けたりするものではなく、個々人が積み上げ、皆で形成していくものだと私は信じています。外的な罰則や形式的なルールに頼ることに限界を迎えた今、私たちは自らの心の根底にある謙虚な敬虔(けいけん)さを取り戻し、内なる精神の土台から社会の規範を紡ぎ直していく必要があると思います。

プロフィール
藤 宗現(ふじ・そうげん)

本名・藤重太。「宗現」は茶道の宗号。1967年、東京都生まれ、千葉県育ち。成田山(真言宗)が運営する成田高校を卒業。18歳で単身台湾に留学、国立台湾大学を卒業。現在は日本と台湾の交流アドバイザーなど顧問業を生業とする。台湾留学や日本語講師を経て、日本人としての自覚を強め、古き良き日本を探究中。35歳で仏門に帰依し、仏教を本格的に教わる。その後、「仏教だけでは日本の本質は理解できない」と考え、神道や儒学の研究も始める。「神さま 仏さま お陰さま」の神仏習合の精神を掲げ、日本の国史(主に思想史)、そして本来あった日本の信仰心や宗教心についての勉強会や講演活動などを行っている。

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