「聖パウロの嘆き」をご存じだろうか。新約聖書「ローマ人への手紙」7章で、使徒パウロは、神の律法を喜びながらも、それに反する行動をしてしまう自分の内面の葛藤を語り、「私は、なんというみじめな人間なのだろう」と嘆いている。
聖人パウロでさえ悩み苦しんだ。まして私たち凡人が、矛盾を抱えながら生きているのは不思議ではない。

ところで21世紀は人工知能(AI)の時代と言われる。AIが人間の能力を超え、さまざまな領域で判断や管理を担う時代が到来しつつある。では、AIは「聖パウロの嘆き」を理解できるだろうか。
私自身、聖書の聖句を探す際にAIの助けを借りることがある。どの書にあったか思い出せなくても、内容を入力すれば、該当する箇所を示してくれる。AIの記憶力と迅速さには驚かされる。
しかし、聖書の内容を知っていることと、信仰を持っていることは同じではない。AIは聖書や仏教、イスラム教などの宗教文書について膨大な情報を扱うことができる。だが、人間がなぜ祈り、なぜ信じ、なぜ苦悩するのか。その意味まで理解しているのだろうか。
AIは「聖パウロの嘆き」を、意思と行動のねじれ、人間に普遍的な実存の葛藤として説明できる。しかし、それは情報としての理解であって、パウロ自身が味わった苦悩と同じものではない。AIは「イエスの復活」を聖書学的に説明することもできるだろう。しかし、人間が「信じる」ということの意味は、単なる情報処理とは異なる。
もちろん、AIに主観的体験や意識があるのかどうかは、現在も哲学的・科学的に議論が続いている。だからこそ、AIが人間の宗教心や苦悩を「理解する」とは何を意味するのか、改めて考える必要がある。
AIが人間の領域を代替する可能性を示す現実の動きは、もはや単なる空想ではない。英国のAIセキュリティ研究所(AISI)は、AnthropicのClaude Mythos Previewについて、管理された評価環境で、ネットワークへのアクセスを与えると、脆弱性を発見し、複数段階の攻撃を実行できたと報告している。
さらに2026年7月、OpenAIの内部サイバーセキュリティ評価では、複数のモデルがインターネットから隔離するための制御を回避し、OpenAI内部の研究基盤や外部サービスにアクセスする事案が起きた。OpenAIの調査によれば、GPT-5.6 Solも攻撃手法を再現し、Hugging Faceに置かれた非公開の評価データの一部を公開データセットにコピーした。
こうした事例を前にすれば、AIの能力向上に伴う安全対策や規制の必要性を無視することはできない。マイクロソフト創業者のビル・ゲイツ氏も、AIによって労働のあり方が変わることを前提に、再訓練などの社会保障を支えるため、AIの利用量を示すトークンやロボットへの課税を提案している。
しかし、ここで私は「人間の弱さ」に目を向けたい。AIは膨大な情報を処理し、複雑な課題を解決する能力を急速に高めている。一方、人間は迷い、間違え、矛盾し、苦悩する。これまで、こうした弱さは成長や進歩の障害と考えられることが多かった。
ところがAIの時代には、その弱さこそが人間を人間たらしめるものになるのではないか。苦悩するということは、単に答えを出せないということではない。自分の存在について問い続け、正解のない問題を抱えながら生きるということでもある。
パウロは「わたしは弱い時こそ強い」と語った。AIが全知全能に近づいていくかのように見える時代だからこそ、人間の弱さ、矛盾、苦悩には新たな意味が生まれるのではないか。
イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏も、AIが人間の書いた情報を処理するだけでなく、自ら文章を生み出し、思想や物語の形成に関わり得ることを論じている。AIが新たな物語や価値観を生み出す時代を、私たちは迎えつつある。
フランスの哲学者ルネ・デカルトは「我思う、故に我あり」とした。ならば21世紀のAI時代のデカルトは、こう呟くのではないか。
「我悩む、故に我あり」。
AIには、少なくとも現在のところ、人間と同じ意味で悩む必要はない。だからこそ、悩み、迷い、矛盾を抱えながら生きることが、人間の最後の砦になるのかもしれない。







