内村鑑三が岡田静子と結婚したのは1892年12月、鑑三31歳、静子18歳だった。
鑑三は貧困と失意の連続の中にあり、大阪の泰西学館(たいせいがっかん)で教員をしていたが、静子が嫁いでくると借家の押し入れはがら空きで、結婚式の時の羽織袴(はかま)は借り物、本箱も机もなかったという。
翌年春、教員を辞し、九州の熊本英学校に勤務。ここも3カ月ほどで辞め、8月から妻の実家のある京都に移った。職を失って就いたアルバイトは展覧会で使う英文の看板書き。親友の新渡戸(にとべ)稲造に対し、月25円の収入があると手紙に書いたが、実際にあったのは月25円の借金。便利堂の主人の援助を受けていた。
月給というものの味を知らない生活の中で、何とかやりくりしたのが静子だった。その忍耐力によって内村家に春風が吹いてくる。気難しい舅姑(きゅうこ)へのとりなし、反抗する弟らとの仲立ち、先妻との間の遺児への心遣いに努めた。
このような境遇の中で出版されたのが『後世への最大遺物』だった。鑑三は生きるに値する人生とは何かを主題にした。息子・祐之(ゆうし)の妻となった内村美代子は著書『晩年の父内村鑑三』(教文館)の中で、こう記している。
「七十年の父の生涯、その複雑多岐な経路を考えると、父は、母によって初めて家庭の幸福というものを見出されたのだと思う」
鑑三の心は人間的な潤いを取り戻し、その心境は随筆にも表れた。鑑三は「しづは内村の家に福をもってきた」と感謝し、妻が病の時には、夫の深い心尽くしに支えられ、病を乗り越えた。
(岳)







