トップコラム高市皇子と高市首相の「縁」【上昇気流】

高市皇子と高市首相の「縁」【上昇気流】

 改正皇室典範の「皇統」を巡って論議が絶えないので、書棚から昭和天皇の崩御直後に出版された『天皇制の原像』(至文堂、1989年刊)を取り出した

 同書に古代史研究における実証主義歴史学の権威である坂本太郎氏(1901~87年)の「天皇をめぐるQ&A」が載っている。その中に「皇位継承の直系主義の理念はいつ形成されたか」との問いがあり、坂本氏は現存する最古の日本漢詩集『懐風藻』(751年ごろに完成)から葛野王の伝を引いて答えている

 飛鳥時代の持統天皇の時、皇太子の高(たけ)市(ちの)皇子(みこ)が薨去(こうきょ)されたので天皇は困惑され、皇族諸臣を召して皇嗣を立てることを相談されたが、衆議は紛糾し決しない。そこで葛野王が進み出て「わが国家の法は神代以来、子孫が継承してきた。もし兄弟が相争えば、乱がこれより興る。聖嗣は自然に定まるものだ」と進言した

 持統天皇はこれを受け入れ、天武天皇の嫡(ちゃく)子(し)である草壁皇子の子、軽皇子を皇太子に立てられた(697年)。持統天皇は天武天皇の皇后だった女性天皇で、軽皇子はその直系の孫。譲位され、軽皇子は14歳で文武天皇となられた

 坂本氏は「帝紀の所伝を信用しないという説もあるが、私は古伝として信じるべき立場をとる」と明言している

 この衆議の場所は先月、世界文化遺産に登録された藤原宮である。それから1300余年を経て改正皇室典範が成立した。高市皇子と高市早苗首相。不思議な「縁」を感じる。

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