トップコラム【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(60)ペリリュー島の奮戦 水際撃滅から阻止持久へ 戦略史家 東山恭三

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(60)ペリリュー島の奮戦 水際撃滅から阻止持久へ 戦略史家 東山恭三

米軍上陸から70日間頑強に抵抗

昭和19年9月15日、ペリリュー島に上陸しようとする米海兵隊
昭和19年9月15日、ペリリュー島に上陸しようとする米海兵隊

 炎暑の下で陣地構築

 昭和19年3月30、31の両日、トラック島と並ぶ海軍の重要拠点パラオが米軍の大空襲を受け、航空機約150機、艦船18隻を失う大被害を蒙(こうむ)った。衝撃を受けた大本営は、米軍の進攻先はマリアナよりもパラオの可能性が高いと判断、マリアナに派遣予定の関東軍精鋭の第14師団を急遽(きゅうきょ)パラオに差し向け、4月24日、部隊はパラオに到着した。

ペリリュー島の地図

第14師団長井上貞衛中将は、米軍の狙いをペリリュー島と見た。ペリリュー島はパラオ本島の南約45キロに位置する南北9キロ、東西3キロの小島だが、1200メートルのの滑走路2本を持つ日本海軍の大きな飛行場があったからだ。そこで同島に師団の中で最強の歩兵第2連隊を送り込んだ。連隊長は中川州男(くにお)大佐。

 その4カ月後、マリアナを奪取した米機動部隊はフィリピンに向かうが、その途次、井上中将の予測通りフィリピン攻略の足掛かりとしてペリリュー島を攻撃目標に据えた。

 中川大佐は水際撃滅のための陣地構築に着手した。だが珊瑚(さんご)礁から成る島の地盤は固く、掘削作業は容易でなかった。ただ島の中央部には標高100メートルほどだが入り組んだ地形の山々が連なり、500を超える多数の洞窟や断崖絶壁、さらにリン鉱石の採掘跡も残されていた。

 中川はこれを活(い)かし、山岳部に多数の地下陣地や爆撃に耐える掩体壕(えんたいごう)を築き、それぞれを網の目のように張り巡らせ、ここで圧倒的な戦力を有する米軍と対抗する作戦を採った。守備隊員は上陸直後から連日、炎暑の下での陣地構築に明け暮れた。

日本軍の野戦病院として使われていた「千人洞窟」の入り口
日本軍の野戦病院として使われていた「千人洞窟」の入り口

 その後、サイパンが陥落し、それまでの水際撃滅戦術が通用しないと悟った参謀本部はようやく方針を改め、昭和19年8月に戦闘教令を改正し、主たる抵抗線を海岸から後方に下げ、内陸部の地形などを利用しての阻止持久戦に変更した。フィリピン、さらに日本本土への敵の進攻を少しでも遅らせるのが目的だった。この後、ペリリュー、硫黄島、沖縄ではこの新たな戦術の下で米軍を迎え撃つことになる。

 もっとも、ペリリューではこの時期、既に海岸陣地は完成していた。中川は大本営の方針転換を受け、海岸線で米軍の上陸部隊を叩(たた)くがバンザイ突撃は禁じ、逐次山岳地帯に後退、洞窟陣地を利用しての持久戦に持ち込む作戦を採った。

米軍、猛烈な艦砲射撃

 日本軍が待ち構える中、9月6日から米軍は凄(すさ)まじい艦砲射撃を実施、続いて15日午前6時すぎ、米軍の舟艇約300隻が島西南部の海岸めがけ上陸作戦を開始した。ルパータス少将率いる第1海兵師団など約4万人の米軍に対し、日本軍守備隊は約1万人。圧倒的な戦力差で、ルパータス少将は「ペリリューは3日で占領できる」と豪語した。

 米軍舟艇は反撃を受けることなく海岸線近くまで進出したが、そこで日本軍の仕掛けた機雷に触れ次々に炎上、また海岸陣地からの砲撃も始まり、上陸の第1波は撃退された。

 しかし米軍は猛烈な艦砲射撃で対抗し、午前8時30分ごろ一部の部隊が防御手薄な海岸から上陸し日本兵と白兵戦を展開、間断なく兵力を投入する米軍はやがて橋頭堡(きょうとうほ)を確保し、同日夕刻には飛行場の南まで進出した。M4シャーマン戦車を先頭に立て内陸部に攻め込もうとする米軍に対し、日本軍は95式戦車で応戦したが、砲の口径差は大きく忽(たちま)ち我が戦車隊は壊滅した。

 上陸3日目の9月17日、米軍は飛行場および島の南部地区を制圧する。中川大佐は戦線を縮小し、全軍に山岳地帯への集結を命じた。以後、日本軍守備隊は大山、観測山、東山、水府山などと名付けた山岳地帯の洞窟陣地に拠(よ)る持久戦に入った。

 山岳地帯で徹底抗戦

 9月19日早朝、艦砲射撃の支援の下、米軍第1海兵師団は山岳地帯への攻撃を開始した。以後、日本軍守備隊は険しい地形や地下陣地を利用し、狙撃や夜襲、切り込み攻撃を繰り返し、敵の進出を阻止し続ける。

 日本軍の抵抗で米軍の山岳地帯攻略が遅々として進まぬなか、パラオ本島からの増援部隊約千人が9月23~24日にかけて島に逆上陸を敢行。これに対し米軍は西海岸沿いに北上、山岳地帯を包囲するとともに、逆上陸部隊と守備隊との合流阻止を図った。だが大きな犠牲を出したが増援部隊の半数ほどが上陸に成功、その一部が守備隊との合流を果たした。

 一方、米軍に包囲された山岳地帯の守備隊は、犠牲を重ねながらも米軍に出血を強要し、戦場は猖獗(しょうけつ)を極めた。焦る米軍は9月27日、ペリリュー島占領を宣言したが、日本軍はさらに2カ月、米軍上陸から70日間にわたり頑強かつ組織的な抵抗を続けた。10月に入り第1海兵師団の損害は限界に達し、陸軍第1歩兵師団と交代、米軍は上空からナパーム弾を投下、地上では火炎放射や手榴弾(しゅりゅうだん)、爆薬を投げ込み洞窟陣地を一つ一つ潰(つぶ)していった。

 そして遂(つい)に日本軍最後の拠点である大山の守備隊本部に米軍が迫った。中川大佐は11月24日午後4時、パラオ本島の司令部に宛て「サクラ、サクラ」の訣別(けつべつ)電報を送信、副官根本甲子郎大尉に遊撃切り込み隊の編成を指示した後、塹壕(ざんごう)内で自決した。根本大尉と連隊旗手の烏丸洋一中尉ら56人の遊撃隊は同夜総攻撃をかけ、全員壮烈な戦死を遂げた。

 組織的な戦闘が終わった後も、洞窟に潜んだ生存兵はなおも抗戦を続けた。最後の日本兵34人が米軍に投降したのは、昭和22年4月22日のことであった。硫黄島と並びペリリューの戦は、太平洋戦争において日本軍が最も激しく米軍に抵抗し、そして最も長きにわたりその進攻を食い止めることに成功した戦であった。

(毎月1回掲載)

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