鎌倉時代初期の歌人、藤原定家は日記『明月記』に「関東で源頼朝が決起した話を聞いたが、戦争のことなど知ったことではない」といった内容を記している。
治承4(1180)年9月(日にちは不明)の日記だが、8月17日の頼朝決起の情報が京都に伝わっている。時に定家は18歳。若い年齢で、自身の立ち位置が決まっているかのようだ。
藤原家傍流の定家は、自身が摂政や関白にはなれないことは分かっている。そんな自分にとって、どこで戦乱が起こっていようと直接関係がないというのは自然な話だ。
その定家も、正二位という高官になっていた頃、大飢饉(ききん)に直面した。『明月記』には「屋敷を出れば、のたれ死んだ人がたくさんいるし、家にいても、死体の臭いが入ってきて困る」と書かれている。
その頃の定家は70歳ぐらい。飢饉そのものは自然災害の側面もあるには違いない。が、トップでも藤原本流でもないとしても、定家が高官であることは確かだ。月に2、3回開かれる会議の席で少しは発言する責任ぐらいはあるはずだ。ところがその時の『明月記』の記述は、18歳の昔の「戦乱なんかどうでもいい」と言い放った頃と全く変わっていない。そこが興味深い。
昔の権力(特に貴族)は、片手間で政治を行っていたような印象がある。それはそれで何とかやっていけたのだろう。が、武士が登場するとそうはいかない。武士の台頭は歴史の自然な流れだったのだろう。





