トップコラム【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(59)サイパン失陥と東條内閣瓦解 早期講和具申した大佐は左遷 戦略史家 東山恭三

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(59)サイパン失陥と東條内閣瓦解 早期講和具申した大佐は左遷 戦略史家 東山恭三

統帥権の独立がもたらした悲運

東條内閣瓦解後発足した小磯国昭内閣
東條内閣瓦解後発足した小磯国昭内閣

 憚られた戦争終結論

 昭和19年4月、横須賀鎮守府長官豊田副武大将は「率直に告白すれば、戦局挽回の成算も立たず、陸軍の飛行機を振り向けたとしても、もはや時機遅れで間に合わぬ。やはり思い切った外交措置を打たねばいかんように考える」と高木惣吉海軍省教育局長に語っている。

 豊田だけでなく軍や政府要人の多くは、戦勝の可能性は既に遠のき、これ以上の戦争継続が国を滅ぼすことを恐れ、戦争終結に動き出すべきだと内心考えてはいた。だが、その思いが一つの力となり、国の針路を動かすには至らなかった。公の場で「敗北」を許容するような発言をして国賊とののしられたくはない。また徹底抗戦を説く陸軍強硬派を刺激し、政変となることを恐れた。さらには東條英機首相が憲兵隊を使い、和平派の動きを徹底的にマークし、その活動を厳しく取り締まっていたことも戦争終結論を封じ込める大きな力であった。

 先の豊田も戦後、「(終戦工作をやっている)米内(光政)と同じ行動をとっておったら果たしてどういうことになったであろうか。陸軍対海軍の関係も非常に深刻になって、何が起こるか分からない。私の本当の考えは強い言葉でカモフラージュして鋭鋒を逸らすことに苦心していたのである」と吐露している(豊田副武『最後の帝国海軍』)

 ところが、意外なところで戦争終結案の策定が進んでいた。陸軍参謀本部の主流を成す作戦課は、言うまでもなく「戦争継続・徹底抗戦あるのみ」の立場である。だが同課内の戦争指導班は、昭和19年3月頃から班長の松谷誠大佐が中心となり、同年末を目途(めど)にそれまでの「今後採るべき戦争指導の大綱」を改め、戦争の終結を睨(にら)んだ新たな戦争指導策を打ち出そうと立案作業に当たっていたのだ。以下がその骨子である。

 「今後帝国ハ作戦的ニ大勢挽回ノ目途ナク而カモ独ノ様相モ概ネ帝国ト同シク、今後逐次「ジリ貧」ニ陥ルヘキヲ以テ速ニ戦争終末ヲ企図ストノ結論ニ意見一致セリ。即チ帝国トシテハ甚タ困難ナカラ政略攻勢ニ依リ戦争ノ決ヲ求メサルヲ得ス。此ノ際ノ条件ハ唯国体護持アルノミ。而シテ政略攻勢ノ対象ハ先ツ「ソ」(ソ連)ニ指向スルヲ可トス。斯カル帝国ノ企図不成功ニ終リタル場合ニ於テハ最早一億玉砕アルノミ」(大本営陸軍部戦争指導班『機密戦争日誌』)

 この案を聞かされた秦彦三郎参謀本部次長は内容の重大性に驚き、軍上層部や外部に提出してはならぬと命じた。だが松谷大佐は重臣や高松宮などと接触、海軍軍令部にも意見を求めた。さらに「清水の舞台から飛び降りるつもり」で6月、東條参謀総長にこの案を説明し早期講和を意見具申した。その直後の7月3日、突然松谷大佐は支那派遣軍参謀に左遷される。主戦派東條の怒りを買っての人事だった。この早期講和案が日の目を見ることはなかった。

 重臣ら東條倒閣運動

東條内閣打倒に動いた 岡田啓介海軍大将
東條内閣打倒に動いた 岡田啓介海軍大将

 サイパン島の陥落で、東條首相に対する批判は頂点に達した。岡田啓介海軍大将を中心とする重臣グループは、東條内閣打倒を目指し画策を続けていた。その動きを察知した東條は、海相の更迭や重臣の入閣などを促す木戸内大臣の助言も踏まえ、米内光政海軍大将の入閣、岸信介国務大臣の辞任による内閣改造で政権の延命を図ろうとしたが、米内は入閣を拒否、岸も辞任を拒否した。事前に岡田らと示し合わせていたのだ。万策尽き、7月18日に東條首相は辞任。開戦前より続いた東條内閣は2年9カ月で崩壊した。

 だが重臣グループは戦争終結よりも専ら東條追い落としに目が向いていたため、その後の道筋、即(すなわ)ち戦争終結や講和に向けた具体的な構想は何ら持ち合わせていなかった。東條の後任には、朝鮮総督の小磯国昭陸軍大将が選ばれた。小磯も戦争終結を意識していたが、消去法による人選で、彼に難局を乗り切るだけの政治的な力量はなかった。それどころか陸軍を抑え込んでいた東條と違い、傍流の小磯は陸軍部内の統率にも苦労した。

 政戦略の一体化を目指し、小磯は大本営への列席を求めた。だが参謀本部は拒否。ようやくそれが認められたのは昭和20年3月16日、戦争指導強化に関する件を両総長と共に上奏、允裁(いんさい)を得た時だった。この時初めて、小磯首相は陸海軍大臣と共に戦争指導の議に列することができた。これは日露戦争の際、元老伊藤博文や桂太郎首相が大本営の議に列して以来のことだった。

 「このどん底に至らなければ出来ぬのが、日本戦争指導部の本質的欠陥であった。統帥権独立のもたらした国家的悲運であった」(種村佐考『大本営機密日誌』)。

 軍中枢の高級参謀でさえも理不尽と憤りながら、それを改めることができない日本の政策決定メカニズムの深き病巣である。

 一撃講和論が妨げに

早期講和を具申し左遷された松谷誠大佐
早期講和を具申し左遷された松谷誠大佐

 政府部内で「一撃講和」論が力を得ていたことも早期講和の動きを妨げた。米国との講和交渉を有利に運ぶには、まず一大決戦で勝利を収めねばならないとの考えだ。日本海海戦での大勝利を機に米国の斡旋(あっせん)でロシアとの和平交渉がなった日露戦争の再現を夢想したのだ。

 戦争を終わらせるべきだと考える人はいても、あくまでそれは「名誉ある講和」でなければならなかった。特に軍部は「決戦での勝利後」でなければ講和など絶対に容認しなかった。

 だが日本に戦局を逆転し得る力など既に無いことは自明だった。毅然(きぜん)と敵に立ち向かう指導者は称揚されるが、国賊、弱腰との非難や罵声を浴びても主戦論を抑え、矛を収めよと説く指導者も戦時には必要だ。しかしそうした指導者は現れぬまま、日本は比島決戦へと進んでいく。

(毎月1回掲載)

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