「平和」という言葉がある。「平和とは何か?」という十分な説明もないまま、メディアはただ「平和」を叫ぶことが多い。国際政治学者、高坂(こうさか)正堯(まさたか)氏(1996年没)の著書『国際政治 恐怖と希望』(中公新書)に「平和への志向は、多かれ少なかれイデオロギー的な色彩を持ち、なんらかの力によって後押しされている」という言葉がある。
「戦争の原因をある特定の勢力に求め、それを除去することによって平和が得られるという(略)考え方は、人間が(略)怠惰な存在であることに原因している」という言葉もある。
「特定の勢力を除去すればいい」というのは、その勢力を排除するわけだから、「特定の勢力」という「敵」がいなければならない。「敵」を排除するのは、それ自体が「平和」を否定することだ。
状況設定の一例だが、互いに好意を持っているわけではない2人の人間が、それぞれピストルを持って別々の部屋の中に閉じ込められたとする。客観的には「2人ともピストルを捨てるだろう」と予想する状況だと言える。
だが、人間の理性はそれほど単純にはできていない。人間は理性によって将来を予見することができるから「相手がピストルを捨てることはない」と判断する。人間が単純ならば捨てることもできようが、生存に関して人間は、一定程度の理性を持っている。
こうした事情もあって、ことは簡単にはいかないのだ。「平和」は存外やっかいな代物のようだ。





