トップコラム【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(58)サイパン島の戦い(下)戦略史家 東山恭三

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(58)サイパン島の戦い(下)戦略史家 東山恭三

本土空襲は時間の問題に 陥落機に終戦へ動くべきだった

サイパン島にあった南洋興発の工場
サイパン島にあった南洋興発の工場

 総攻撃命じ幹部自決

 昭和19年6月11、12日の米艦載機によるマリアナ空襲で、テニアン島の第1航空艦隊は壊滅。日本軍は米軍上陸部隊と戦う前に、その航空戦力を全て失ってしまった。次いで6月13日からサイパン島への艦砲射撃が開始され、15日早朝、同島西のチャランカノア海岸に米軍第2、第4海兵師団、歩兵第27師団が上陸した。

 米軍の総兵力は約7万1千人。迎え撃つ日本軍は総指揮官が中部太平洋方面艦隊司令長官南雲忠一中将、陸軍は斎藤義次中将の第43師団など総兵力4万3千人。本来は第31軍司令官小畑英良中将が陸軍の指揮を執るべきだが、米軍上陸時はパラオ方面視察中のため帰島できず、代わって斎藤中将が陸軍守備隊の指揮を執った。

 米軍は15日中に約2万人の兵力を上陸させることに成功。日本軍守備隊は16、17日の両日夜襲をかけた。攻撃には戦車連隊も加わったが、多数の死傷者と戦車31両を失い退却を強いられた。

1930年代のガラパン市街
1930年代のガラパン市街

 サイパン島上陸に成功した米軍は17日、島の南端にあるアスリート飛行場を含む南部を制圧、さらに東岸に進出し島を分断した。これに対し日本軍守備隊は中部山岳地タポチョ山に後退し頑強に抵抗し、米軍歩兵第27師団長が戦闘中解任される異例の事態も起きた。

 だが激しい白兵戦の末、26日にはタポチョ山頂も米軍の手に落ちた。日本軍はタポチョ山北方の高地に移動し、東岸のタナバク~西岸のタロホホの線を最後の抵抗線として戦闘を続行、司令部も後方の地獄谷の自然壕(ごう)に移動した。その間、大本営はサイパン奪還も検討したが、マリアナ沖海戦の惨敗もあり断念、24日サイパンの放棄が決定した。

 28日、米軍はサイパン最大の市街地ガラパンへの攻撃を開始。民間人は戦闘を避け島の東岸沿いに北へと避難して行った。日本軍守備隊は起伏の多いガラパンの地形や市街地の建築物を利用し肉薄攻撃、白兵突撃を駆使し勇戦・敢闘した後、7月4日全滅した。ガラパンの街は瓦礫(がれき)と化した。南雲中将は5日、軍令部に宛て訣別(けつべつ)電報を送る。

 6日、斎藤中将が残存部隊に最後の総攻撃を命じた後、南雲中将以下主要な幹部は地獄谷の司令部壕で自決した。6日深夜から7日早朝にかけ、民間人も含め残存部隊約3000人がタナバク付近に展開する米軍に向け「万歳突撃」を敢行。倒れても倒れても襲い掛かってくる日本兵に米軍は恐れおののき、1500人以上の米兵が犠牲になった。だが7日昼頃には米軍に鎮圧され、ここに日本軍の組織的な戦闘は終わった。

バンザイクリフ。左上に慰霊碑が立っている
バンザイクリフ。左上に慰霊碑が立っている

 女性らが相次ぎ投身

 米軍は西側から第27歩兵師団、東側から第4海兵師団と第2海兵師団が島の北端マッピ岬に向け進撃した。約4000人の一般邦人が島北に追い詰められていった。青壮年男子は軍属として徴用され、あるいは義勇軍を編成して軍と行動を共にしており、北に逃れた邦人の多くは女性や老人子供らであった。

 米軍は拡声器で投降を勧めたが、軍から「米軍に捕まれば殺され、辱めを受ける」「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」などと教えられていたため、9日、日本に最も近いマッピ岬のバンザイクリフやスーサイドクリフから相次ぎ身を投じていった。数人が車座になり、手榴弾(しゅりゅうだん)を叩(たた)いて集団自決する者たちもいた。約1年の後、沖縄で同じような惨劇が繰り返されることになる。

 同日夕刻、米軍はサイパン島の占領を宣言する。厚生労働省によれば、日本人の戦死者は軍民合わせ約5万5千人。このうち約2万6千人分の遺骨がまだ島内に眠っている。

 戦闘の終結後、日本統治時代の痕跡を消し去るため、米軍は航空機で全島にタガンタガンの種を撒(ま)き、日本人が開墾した畑や施設の全てが森林で覆い尽くされていった。サイパン島に続き、8月3日にはテニアン島、11日にはグアム島の日本軍守備隊が相次ぎ玉砕した。マリアナを失ったことで、絶対国防圏に大きな穴が開くことになった。

 邦人2万人の準国土

 7月18日、大本営はサイパン陥落を発表したが、この島はそれまで玉砕を続けてきた南方の島嶼(とうしょ)とは異なっていた。第1次世界大戦後に日本の委任統治領となって以降、沖縄など内地から多くの日本人が移り住み、米軍来襲時、2万人以上の邦人がこの島で暮らしていた。

 製糖業も盛んで、その代表格である南洋興発は「北の満鉄、南の南興」と呼ばれるほどの隆盛を誇っていた。中心地のガラパンは内地の繁華街にも引けを取らぬ規模で、島内には軽便鉄道も走っていた。いわば準国土ともいうべきサイパンまでが奪われたことに国民は大きく動揺し、戦争の先行きに対する不安は一挙に高まったのである。

 日本本土への爆撃が開始されるのは時間の問題となり、しかも海空戦力の絶対的劣勢により、もはや太平洋正面の防備を全うし得ざることは明らかだった。戦局が重大な局面に差し掛かったこの段階で、日本政府は速やかに終戦に向けて動き出すべきであった。

 たとえ不利な条件を強いられたとしても、昭和19年のうちに戦争を終えておれば沖縄や硫黄島の地上戦は起きず、本土は焼け野原にならなかった。原爆の投下も回避できた。ソ連の参戦も無いので朝鮮は分断国家とならず、満州における残留孤児の悲劇やシベリア抑留も起きなかった。中国での大陸打通作戦は途中で打ち切りとなり、国府軍の損失は軽く済み、その後の内戦は国民党の有利に作用したはずだ。では当時、戦争終結を目指す動きは国内で起きなかったのだろうか?

(毎月1回掲載)

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