自国の言語は「主語」が明確であるかどうか? 日本語は主語が明確ではない言語だ。子供が学校へ行く時、「行ってきます」と言うのが日本では普通。「私は学校へ行ってきます」とあいさつするケースはあまり聞かない。
日本語は主語を使わなくても通じることが多い。逆に世界には、英語や中国語のように主語が明確に存在する言語もある。言われてみればその通りだ(松元崇(たかし)著『武器としての日本語思考』新潮新書/近刊)。
紫式部の『源氏物語』には主語が出てこない。現代語訳では訳者(例えば谷崎潤一郎)が主語を補っているので、どうにか現代の読者にも意味は通じる。
平安時代の人々は、主語の代わりに敬語の使い方を見ることで『源氏』を読んだ。敬語は身分関係を直接示すものだから、主語なしでも何とか読むことができた。『源氏』の読者は狭い宮廷関係者だけだから、敬語だけでも十分了解可能だったのだろう。
会話中(外国人を含む)の他の発言者に対する反応速度は日本人が格段に速い、と著者は指摘する。どうやら日本人は、その場での自身の立ち位置を見定めることが得意のようだ。相手との関係を臨機応変に取り結ぼうとすることを重視したのだろう。
英語では「AはX」という風に、結論から始まる。日本語では結論まで待つ必要がある。大学などでは「結論ありき」がよろしいという教育が行われていることが多いが、どちらがいいかはそれぞれだ。






