トップコラム【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(56)ニューギニアの戦い(上)戦略史家 東山恭三

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(56)ニューギニアの戦い(上)戦略史家 東山恭三

搭乗員の練度不足、米はVT信管導入

アウトレンジ戦法奏功せず

マリアナ沖海戦の惨敗

空母大鳳(米潜水艦の雷撃で航空燃料が漏洩、大爆発し沈没)
空母大鳳(米潜水艦の雷撃で航空燃料が漏洩、大爆発し沈没)

 「あ号作戦」発動命ず

 ビアク島での日本軍の善戦ぶりを見た海軍は渾(こん)作戦を発令(昭和19年5月29日)、増援部隊を乗せた艦隊をビアクに派遣する。だが米軍の妨害に遭い輸送は難航、そこで輸送部隊に戦艦大和を含む強力な攻撃部隊を随伴させることを決定するが、折からスプルーアンス大将指揮の米第5艦隊がミッチャー中将の第58機動部隊や上陸部隊であるスミス海兵中将の第5水陸両用軍団を擁し、マリアナ諸島に来攻。そのため艦隊のビアク派遣は中止された。

 6月11、12の両日、第58機動部隊の艦載機がマリアナ諸島を空襲、13日にはサイパン島への激しい艦砲射撃を開始し、6月15日午前7時15分、米軍第2、第4海兵師団および歩兵第27師団がサイパン島東南部チャランカノアの海岸に殺到した。

 6月15日、豊田副武連合艦隊司令長官は米艦隊を撃砕すべく「あ号作戦」発動を命じた。前任の古賀峯一長官当時に構想された「新Z作戦」計画を踏まえたものである。これを受け小沢治三郎中将の第1機動艦隊はボルネオ島のタウイタウイ泊地を出撃、フィリピンを経てマリアナ海域に進出。米機動部隊はこの動きを知ったがサイパン周辺から動かず、日本軍の攻撃を待ち受ける態勢を取った。

 第1機動艦隊は大鳳(たいほう)、翔鶴(しょうかく)、瑞鶴(ずいかく)など空母9隻に艦載機約450機、戦艦5隻など総勢68隻。これは、真珠湾攻撃に参加した空母6隻と艦載機423機を上回る規模であった。しかし対する米軍は、空母15隻に艦載機約900機、戦艦7隻の総数100隻、さらにこれとは別に上陸部隊支援用の護衛空母15(艦載機314機以上)、戦艦7、重巡1、軽巡2、駆逐艦36隻を擁しており、日本の倍以上の戦力を有していた。

 ただ日本はテニアンに司令部を置く基地航空隊の第1航空艦隊を昭和18年7月に新編、完成時には約1700機の航空機が配備される予定で、空母と合わせれば米艦隊の機数を上回るはずであった。だが海軍軍令部はマリアナ防衛のために準備した第1航空艦隊の航空兵力をビアク島支援などに転用したため兵力が分散消失、海戦時の手持ち航空機は93機しかなく、さらに米艦載機の猛烈な空襲でほぼ無力化してしまった。

小沢治三郎中将
小沢治三郎中将

 米軍は最新鋭機投入

 そうした劣勢不利な状況の中で、小沢が選んだのがアウトレンジの戦法であった。アウトレンジ戦法とは、米軍機よりも航続距離の長い航空機を使い、敵の攻撃範囲の外側から先制攻撃を仕掛けるもので、米軍航空機による我が艦隊への攻撃も回避できる利点があった。軽量で防御能力に欠けた半面、日本の艦載機は航続距離が米軍機よりも長く、その利点を活(い)かそうとしたのだ。

 昭和19年6月19日、米機動部隊に先んじて第1機動艦隊から第1次攻撃隊246機、第2次攻撃隊82機、計328機が発艦。この時艦隊司令部は勝利を疑わなかった。しかし開戦当初と違いベテラン搭乗員は少なく、燃料不足も加わり数百時間程度の飛行経験しかない未熟な搭乗員に400カイリもの長距離飛行は負担が大き過ぎた。攻撃隊の多くは米艦隊を発見できなかった。

 またレーダーで日本軍機の接近を察知した米軍は、従来のグラマンF4Fワイルドキャットに代わりF6Fヘルキャットなど最新鋭機を投入して待ち受け、高い高度から日本軍機を迎撃し次々と撃墜していった。米軍機が圧勝した様は「マリアナの七面鳥撃ち」と呼ばれた。

 戦後、小沢は「彼我の兵力、練度からしてまともに四つに組んで戦える相手ではないことは百も承知のうえの結論がアウトレンジであり、部隊は上下一貫してこの戦法で思想は一致していた」と述懐している。しかし、搭乗員の練度不足に対する懸念の声は作戦当時、航空関係者の中から漏れていたという。

 さらに何とか米戦闘機の防空網を突破し米艦隊に迫った一部の日本軍機も、VT信管を備えた対空砲弾によって迎撃された。VT信管とは、電波を照射し15㍍以内に目標を捉えれば、信管が自動的に作動、直撃せずとも命中同然の被害を敵に与えることができる新兵器。日本はVT信管の登場に不知であった。

米軍の攻撃を受ける空母瑞鶴と駆逐艦2隻
米軍の攻撃を受ける空母瑞鶴と駆逐艦2隻

 空母など6隻が沈没

 その上、第1機動艦隊は対潜警戒を怠った。米潜水艦による至近からの魚雷攻撃で旗艦の新鋭空母大鳳や翔鶴が相次いで撃沈された。翌日には米艦載機の攻撃で空母飛鷹(ひよう)も沈められ、他の艦船にも被害が出た。

 この海戦で日本は空母3隻を含む6隻が沈没、空母瑞鶴、隼鷹(じゅんよう)等7隻が中小破、艦載機395機を失った。戦闘終了した時点で稼働可能な艦載機は35機に減っていた。一方、米軍は1隻の船も沈められず5隻が小破したのみ、艦載機損失も120機に留(とど)まった。海戦は一方的な日本軍の敗北に終わった。以後、日本軍は米軍との空母決戦を行うことが不可能になった。

 敗因は戦力格差や搭乗員の技量、VT信管だけではない。母艦や各航空機間の無線通信も不自由な日本軍に対し、米軍はレーダーでいち早く掴(つか)んだ敵機の情報を部隊全体で共有し、最適な防空迎撃態勢を敷く指揮管制システムを開発していた。

 また少数精鋭を誇りながら搭乗員を使い捨てた日本軍に対し、米軍は身の安全確保に最大限の配慮を施しつつ、しかも搭乗員を大量に養成した。戦争の後半、搭乗員の層の厚さでも米軍は日本軍を凌駕(りょうが)していた。もはや攻撃精神だけで勝てる時代は過ぎていた。「あれ以外にどのような方法で戦えたというのか」と小沢は反論するが、負けるべくして負けた戦だった。

(毎月1回掲載)

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