トップコラム【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(55)ニューギニアの戦い(下)戦略史家 東山恭三

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(55)ニューギニアの戦い(下)戦略史家 東山恭三

海軍の後始末強いられた陸軍

終戦まで抗戦、米軍の日本進攻遅らす

 最後の決戦場ビアク

 ニューギニア西端の北に浮かぶビアク島は周囲約400㌔、淡路島の3倍ほどの平坦(へいたん)な島だ。昭和19年5月27日午前4時半、この島の南東モクメル海岸1㌔沖の海上に米軍艦艇が姿を見せ、激しい艦砲射撃を開始した。そして午前7時15分ごろ、水陸両用戦車を先頭に無数の上陸用舟艇が連なって海岸に押し寄せた。

 この島に飛行場を造ればフィリピンまで飛行が可能になる。またニミッツ海軍大将の太平洋軍は6月15日にサイパン島攻略を予定しており、ビアク島からの航空援護を要請してきた。それ故、マッカーサーは面子(めんつ)に懸けてもこの島を1週間で占領せんと意気込んでいた。

 日本軍もこの島の重要性に鑑み、昭和18年末から葛目直幸大佐指揮の歩兵222連隊(約3500人)を送り込んだほか、島内3カ所で飛行場の建設に着手、米軍が来襲した頃には海軍根拠地隊も併せ1万1千人ほどの戦力になっていた。

 日本軍は数日にわたり米軍を水際で撃破、上陸を許した後も米軍の進撃を跳ね返し続けた。またニューギニアのマノクワリにいた第25旅団が大発で島の北部コリム海岸に逆上陸し葛目連隊と合流、増援を得て日本軍はさらに勢いづいた。ホーランジアなどと同様、上陸初日に飛行場が建設できると楽観していた米軍は激しい日本軍の抵抗に慌て、マッカーサーは指揮官ハル少将を解任し、ブナ攻略で名を挙げたアイケルバーガー中将を起用した。

 島に数ある洞窟陣地に立て籠(こ)もり米軍に出血を強いた日本軍だが、陸続と兵員を送り込んでくる米軍の前に次第に劣勢を強いられていく。東西に二つある要陣地のうち西洞窟が陥落、東洞窟はなおも抵抗を続けるが、6月28日に全員玉砕して果てた。最後の夜襲も失敗し、7月2日、葛目大佐は自決し組織的な抵抗は終わった。だが海軍根拠地隊司令官千田貞季少将は山岳地帯に籠もり、なおもゲリラ戦を続けた。

 結局マッカーサーは6月15日までに飛行場を建設することができなかった。約3万人の米軍に対し、その10分の1ほどの1個連隊主力の兵力で一月以上も持ち堪(こた)えた日本軍の勇戦ぶりは戦史に名を残すものであり、米軍もその勲(いさお)を高く評価している。

日本兵と共にニューギニアで戦った高砂義勇隊

 限界超す地獄の戦場

 その後、マッカーサーは司令部を置いたホーランジアでフィリピン奪還作戦を指揮し、10月20日、公約通りレイテ島への帰還を果たした。一方、ウェワクに集結していた第18軍は完全に補給が絶たれ、アイタぺから東進する豪州軍の圧迫に耐えつつ自給自活の戦いを強いられた。昭和20年5月には豪州軍がウェワクに上陸作戦を仕掛けてきたが、日本軍はウェワク南部山岳地帯の陣地を守り通した。

 やがて終戦。ニューギニアに送り込まれた日本兵の総数は約20万人、そのうち戦後内地に生還できた者は1万から1万3千人ほどといわれる。第18軍司令官安達二十三中将は138人の将兵と共に戦犯容疑でラバウルに送られた。そして部下全員の裁判が終了した昭和22年9月10日、隠し持っていたナイフで自決した。遺書には、10万人を超える餓死者を出した責任と兵士への謝罪が記されていた。

 人跡未踏の密林や峻険(しゅんけん)な山岳地帯、さらに雨季の氾濫原に行く手を阻まれるなど想像を絶するニューギニアの地で、日本兵は3年近くの長きにわたり、食糧弾薬も機械力も制空権も、その上、地図さえも無いまま、疫病と飢餓に襲われながら米軍と戦い、その進撃を阻みつつ、千㌔にも及ぶ移動、行軍を重ねた。

 その間、飢えた日本兵が現地人だけでなく仲間の病兵を襲い食糧を強奪、さらには戦友の死骸を食したとの凄惨(せいさん)な目撃報告も伝えられている。この地は人間の限界を遥(はる)かに超える地獄の戦場であった。

 なぜこのような過酷で悲惨な戦闘を重ね、多大な犠牲を出さねばならなかったのか、強い怒りと疑問が湧いてくる。開戦後、南方の資源地帯を確保し長期持久の戦いに臨むはずが、海軍は戦線を拡大し続け、米豪の遮断、そしてポートモレスビー攻略に最後まで執着した。しかし自らの手で攻略できぬとなるや陸軍を引きずり込んだ。その陸軍は、海軍の後始末宜(よろ)しくソロモンとニューギニアの二正面作戦を強いられる。

第 222 連隊本部があったビアク島の西洞窟

 高砂族の勇戦記憶を

 しかもニューギニアでは、現地の地誌を把握できていない上に兵站(へいたん)補給を無視、ラバウルからの輸送が至難となり小兵力逐次投入の愚を重ねた。一方、戦力と機動力で勝る米軍は蛙(かえる)飛び作戦を繰り返し、度々(たびたび)日本軍の背後に上陸、挟撃包囲の作戦で日本軍を翻弄(ほんろう)し続けた。

 だがそれでも、日本兵は頑張った。第18軍の参謀だった堀江正夫氏(戦後、陸自方面総監、参議院議員)は「人間が耐え得る限度を遙(はる)かに超えた厳しい環境の中、軍司令官以下一丸となって最後の最後まで戦い抜き、敵の日本に対する進攻を1年半にわたって食い止めた」と自負している。その功労と賛辞は、ニューギニアの土となった20万人近い兵士にこそ与えられるべきものであろう。

 最後に付言したいことがある。高砂族兵士の勇猛な戦いぶりや自己犠牲の姿だ。先の大戦では、密林の戦場に投入するため台湾先住民の高砂族から成る高砂義勇隊が編成された。ニューギニアでも、先頭に立ち密林を切り開き、撤退戦の際には最も危険な殿(しんがり)役を務めた。豪州軍の追撃を阻み、多くの日本兵の撤退を助けた後、そのほとんどが戦死を遂げた。戦後、靖国合祀(ごうし)などの政治問題も起きたが、高砂族の武勲は後世に正しく語り継がれねばならない。

(毎月1回掲載)

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