
新聞小説で読んだ話。「安部公房が小説をフロッピーに入れて編集者に手渡したとき、そのデータは『コンテンツ』となった」と書かれていた。安部は1993年に亡くなった作家だから古い話だ。
そもそも外部記憶媒体のフロッピーに保存するという手段が古いし、手渡しという方法も古い。だが、このようなやり方で原稿を渡しながらも「手書きからワープロによる執筆」へと歴史が一歩進んだことは確かだ。
「コンテンツ」という単語が「中身」という意味であることは分かるが、個人的には令和の今でもなじみにくい言葉だ。それよりも、手書きが苦手の者にとって、ワープロの誕生はありがたかった。当時、編集者から「ワープロを使い始めたら便利だった」と聞いた。
後になって「あなたみたいに字の汚い人間にとってはいいと思うよ」という意味だったと悟って、ワープロを購入した記憶がある。手書きから解放してくれた。
原稿消失事件も仲間から聞いた。原稿用紙で100枚以上もの文字をワープロの操作ミスで消してしまった話には驚いた。当方も、消失の経験は何度かあった。ワープロ本体もフロッピーも容量は少なかった。原稿を記録したフロッピーを封筒に入れて、編集部に送ったことも覚えている。
その当時から30年ほどが経(た)った。当今の流れで言えば、小説も、映画・音楽・ゲームと区別する必要は全くなくなった。「コンテンツ」として同格なのは当然の話だ。






