千㌔の道なき道を移動
ラバウルからの支援も断たれる
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米豪軍に挟撃される
日本軍はポートモレスビー攻略の拠点として、ニューギニアの海岸沿いに東からブナ、ギルワ、バサブアと3カ所に小規模な守備隊を置いていた。一方、マッカーサー麾下(きか)の米豪軍は昭和17年10月、ポートモレスビーからニューギニア東端ミルン湾のワニゲラに空輸で進出、さらに11月にはブナ東方のオロ湾に上陸し、日本軍を目指し西進を開始した。スタンレー山脈を越え南海支隊を追撃してきた豪州軍も海岸に迫り、日本軍は東と南の2方面から米豪連合軍に挟撃されたのである。
必死に海岸まで辿(たど)り着いた南海支隊の生存兵はブナ、ギルワ、バサブアなどで守備隊と共に悲惨な陣地戦を2カ月近く続けることになる。制空権を持たず兵力も劣勢ながら、日本軍は蛸壺(たこつぼ)陣地に立て籠(こ)もり、連合軍の猛爆撃や地上での包囲攻撃に耐えた。
陣地に籠もるだけでなく、夜には切り込み隊を編制し敵陣地を急襲、日本軍の予想外の抵抗に連合軍は驚く。しかし多勢に無勢、増援を得られぬ日本軍は次第に追い詰められていった。
バサブア(12月8日)、ブナ(翌年1月2日)と玉砕、ギルワの陣地も敵に包囲されたが、軍司令部から撤退命令が届いた。ガダルカナル撤退と並ぶ大本営の方針転換だった。歩行可能な兵士は敵の包囲を強行突破し、動けぬ兵はなおも抵抗を続け玉砕した。指揮官小田健作少将は新たな南海支隊長として着任間もなかったが、傷病兵を見捨てるわけにはいかぬと自らは撤退を拒みギルワの陣地に残り、参謀富田義信中佐と共に自決した(1月20日)。
3個師団の投入決定

連合軍のオロ湾上陸と同じ昭和17年11月16日、大本営はニューギニア戦線を担当する第18軍を新設、安達二十三(はたぞう)中将を司令官とし3個師団の投入を決定する。
戦場に近いラエ、サラモアには第51師団を配し敵の進攻を阻止、第20、41師団は米軍の攻撃を避け西方のウェワクとマダンに引き揚げ、その後、陸路西の戦場に駆け付ける作戦であった。だがウェワク~ラエは800㌔も離れており、しかも険しい山脈と密林が立ちはだかっている。地誌に通じておれば、移動が至難を極めることは容易に想像できたはずだ。
昭和18年1月、安達軍司令官はウェワクに上陸した第20師団にラエ、サラモア地区への補給・増援を目的にマダン~ラエを結ぶ300㌔の自動車道建設を命じた。だがつるはしともっこだけの人力では熱帯の過酷な自然に歯が立たず、180㌔まで造った段階で工事を断念。9月に入り、第20師団は北岸の要衝フィンシュハーフェンの防衛を命じられた。
3月1日、第51師団を乗せた高速輸送船8隻が駆逐艦8隻の護衛の下、ラバウルを出港しラエを目指した。しかし翌日B17爆撃機の攻撃で輸送船1隻が沈没、さらに3月3日、ニューブリテン島とニューギニアを繋(つな)ぐダンピール海峡を通過し終わる頃、米軍戦爆連合120余機の攻撃を受け、残る輸送船7隻総(すべ)てと駆逐艦4隻が撃沈され、師団主力の半数(約3千人)が失われた(ダンピールの悲劇)。ダンピール海峡の制海制空権を米軍に奪われ、以後、ラバウルからニューギニアへの補給支援は不可能になった。
ブナ方面から西へ撤退した日本軍は、上陸に成功しラエ、サラモアに拠点を置く第51師団の残存兵力と合流。しかし6月、米軍はサラモア南方のナッソウ湾に上陸。9月にはラエ東北方のポポイにも上陸、さらに豪州軍の落下傘部隊がラエ近郊に降下し、日本軍に迫った。
これに対し第51師団は頑強に抵抗し、サラモアを死守し続けた。また連合軍に包囲され陥落寸前のラエ所在部隊の救出に全力を挙げようとしたが、全滅を危惧した安達軍司令官は同師団に北岸への撤退を命じた。
だがダンピール海峡を扼(やく)する北岸のフィンシュハーフェンも既に米軍に奪われていたため、兵約9千人は海岸沿いを避け、4千㍍の高峰が連なるサラワケット山脈を南から北へ踏破するしかなかった。疲労と食糧の欠乏、さらに夜間は氷点下30度にも達する過酷な環境に3千人近い兵士が亡くなった。
繰り返される大移動

約1カ月かけ、10月半ば部隊は目的地のキアリに到達するが、突如米軍が蛙(かえる)飛び作戦でキアリの西方グンビ岬に上陸したため、第51師団はさらにその西のマダンへの移動を命じられる。この時も海岸の米軍を避けねばならず、フィニステール山脈の縦断越えとなった。
ところが300㌔を踏破しマダンに辿り着くや否や、米軍上陸の危険性ありとしてさらに300㌔西のウェワクへの移動が命じられる。今度は山ではなく、ラム川とセピック川の二つの大河が立ち塞(ふさ)がる大水郷地帯の踏破になった。第51師団の兵は連合軍と交戦を重ねつつ、3度の大移動で千㌔を超える道なき道の移動を強いられたのである。
ウェワクには第51師団やフィンシュハーフェンから撤退してきた第20師団等約5万4千人の兵が集結、しかし米軍は昭和19年4月、またも蛙飛びでウェワクを素通りし、さらに西のアイタぺとホーランジアに上陸した。8月には食料も尽きる状況の中、安達軍司令官は餓死するよりも打って出る決心を固め、7月、2万人の兵力を擁してアイタぺ攻撃に出た。
日米両軍はアイタぺの東を流れるドリュニモール川を挟み攻防を繰り返した。だが物量の差は如何(いかん)ともし難く、1万人の兵を失った日本軍は8月に入り攻撃を断念、東へ退却した。以後、第18軍は西からの豪州軍の攻撃に耐え、終戦までウェワクで持久戦を続けた。一方、米軍は占領したホーランジアに輸送船団を進出させ、来るべきレイテ攻略の拠点とした。
(毎月1回掲載)






