敵を目前に司令部が攻略中止命令

死んでも帰れない島
昭和19年5月5日、大本営は古賀峯一連合艦隊司令長官の「殉職」を発表した。後を継いだ豊田副武大将は、敵の進攻をパラオと想定したが、米機動部隊はマリアナに向かう。
その頃、マッカーサーの部隊はニューギニア北西部沖のビアク島に上陸、航空部隊を進出させフィリピン奪回の拠点とする考えだった。1年ほど前、ニューギニア東部に上陸して以来、マッカーサーは日本軍を追い求め、海岸伝いに西から東へと移動を続けてきたのだ。
南方作戦では、戦局を左右したガダルカナルでの戦いが悲惨を極めたと語られ、また信じられている。しかし、ガ島よりも遙(はる)かに過酷な戦場があった。それがニューギニアだ。「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」の言葉がそれを物語っている。
米軍だけでなく、飢餓と疫病にも襲われたのはガ島もニューギニアも同じだったが、ガダルカナルの場合、戦いはヘンダーソン飛行場の争奪に絞られた。ジャングルに覆われた島内の移動は困難ではあったが、戦場は数十㌔の狭い地域に限られていた。

これに対しニューギニアの戦線は島の東から西にかけて1600㌔にも及び、しかも日本兵は島の中央に連なる標高3千~4千㍍級の山々を何度も上り下りする過酷な移動を強いられた。追撃してくる米軍の攻撃は猛烈を極めたが、食料の補給も得られず、疫病に襲われ衰弱した兵士にとっては、それ以上に移動距離の長大さや平地と山地の激しい温度差が身に応えたのである。原住民に襲われ倒れていった兵士も数多かった。
生存者が少なく、また大部隊の運用がかなわぬ地形から、戦史に残るような大会戦も多くなかった。戦闘での自身の体験は話せても、戦局の全体像を語ることができる関係者が限られたこともあり、ニューギニア戦線の悲惨な惨状が正しく伝えられてこなかったのである。
軍上層部の作戦計画は現地の実情を掌握したものであったか。そのような疑問を抱くと同時に、人間としての極限状況に置かれながら、米軍も称賛するほどの頑強な抵抗を見せ、その進撃を遅延させた日本軍兵士の武勇は、これを広く後世に語り伝えねばならない。そのような思いのもと、ニューギニアでの死闘の経過を振り返ってみたい。
米豪遮断へMO作戦
話は昭和17年に遡(さかのぼ)る。海軍はラバウルを攻略したのに続き、豪州経由での米軍反攻を阻む米豪遮断作戦の一環として、東部ニューギニア南岸のポートモレスビー奇襲攻略を決定する(MO作戦)。連合軍の航空基地があるポートモレスビーの制圧は、ラバウルへの空襲を防ぐためにも必要であった。
昭和17年5月、日本軍は海路陸兵をポートモレスビーに送り込もうとしたが、輸送船を護衛していた空母2隻からなる我が機動部隊が待ち受けていた米空母部隊の攻撃を受け、戦場から撤退していったため(珊瑚(さんご)海海戦)、海からの攻略作戦は中止となった。
そこでニューギニア北岸からオーエンスタンレー山脈を越え陸路350㌔による地上進攻作戦に変更された。陸軍参謀本部は当初、ニューギニアを担当する第17軍に作戦が可能かどうかの調査研究(リ号作戦)を命じたが、実施部隊になる南海支隊の堀井富太郎少将は、車が使えず弾薬や糧食など必要物資を人力だけで担送することは困難と進言した。

ところが参謀本部からダバオの第17軍司令部に出向いた辻政信中佐は、独断で攻略命令を発出する。そのため7月20日、横山與介大佐率いる先遣隊(独立工兵第15連隊)がラバウルを出港、翌日ニューギニア北岸のブナに上陸した後、豪州軍を倒しつつジャングルを切り開いていった。堀井少将率いる南海支隊約1万4千人は8月18日バサブアに上陸し、先遣隊に続いた。ここで陸軍は、ガダルカナルとニューギニアの二正面作戦に踏み出した。
10日もあればポートモレスビーに到達できるとの判断から、兵には20日分の糧食しか与えられなかった。だが峻険(しゅんけん)な地形の上、地図も無く、進軍速度は鈍り、8月下旬に糧食が底を突き出した。進撃を続けるには後方からの補給支援が必要だが、ガダルカナル作戦に兵力を割かれ増援部隊を送り込む余裕はなかった。
それでも南海支隊は前進を続けた。大木が倒れ、樹々の枝やツルの類いが絡み合い行く手を阻む。樹上からは吸血ヒルが降り注ぎ衣服の隙間から潜り込んだ。日本人が経験したことのない深い密林に続き、標高3千㍍近い峻険な峰になり、熱帯装備しか持たない兵士は空腹と疲労に寒気も加わり、マラリアで倒れる者が続出した。
底を突いた兵の糧食
しかし9月5日にはオーエンスタンレー山脈の分水点を越え、遂(つい)に16日、ポートモレスビーの北東約60㌔のイオリバイアを制圧、ポートモレスビーの街の灯が視認できるほどの位置まで進出した。あと2日で目的地に到達できる。
ところがその直前、南海支隊にポートモレスビー攻略作戦の中止と北麓までの撤退命令が下る(9月13日)。二正面作戦が困難と判断した第17軍司令部がガダルカナル支援を優先させたためだ。支隊は泣く泣く来た道を戻り撤退を始めるが、既に兵の糧食は完全に底を突き、後退した先にも食糧は無かった。しかも背後から豪州軍が攻め上り襲い掛かってきた。
堀井支隊長は山脈を越え北麓のココダまで下がり、反撃体制を整えようとしたが失敗、支隊はココダも放棄し北岸へ撤退する。堀井支隊長は増水で渡河困難な川をカヌーで下り海に出たが、カヌーが転覆し溺死。雨季の豪雨の中、生き残った兵が何とか集結地のブナ周辺に辿(たど)り着いた頃、突如現れたマッカーサーの連合軍と日本軍守備隊の戦いが始まっていた。
(毎月1回掲載)





