
没収の事実生涯否定
古賀峯一長官の一番機が消息を絶った頃、福留繁参謀長の乗った2番機も悪天候で進路を誤り、目的地のダバオには着けずセブ島東岸沖に不時着した。昭和19年4月1日未明のことだ。
福留参謀長ら一行9人は陸地に向け泳ぎ出したが、カヌーで近づいてきたフィリピン人ゲリラに拘束され、捕虜となる。折からこのゲリラ部隊を討伐中の日本陸軍部隊(独立混成第31旅団大西大隊)が一行救出のための交渉に当たり、陸軍がゲリラの包囲を解くことを交換条件として、4月11日に福留参謀長らは無事解放された。
だが福留と随行の山本祐二参謀が携えていた次期作戦に関する機密書類(昭和19年3月8日付聯合艦隊機密作戦命令第73号〈Z作戦計画書〉と暗号署など)が入った鞄(かばん)はゲリラに没収され、米軍の手に渡った。不時着の際、二人は機密文書の海中投棄や破棄を怠ったのだ。結果、その後の日本軍の動きは米軍の知るところとなり、後のあ号作戦などに影響を与えた。
機密書類が奪われたことを知った日本軍が作戦計画を変更することを恐れた米海軍は、その事実を悟られぬよう再び機密書類を鞄に収め、潜水艦でセブに運び飛行艇が不時着した海面に流した。
一方、福留は軍機が奪われた事実を生涯否定し続けた。海軍上層部は機密書類の行方を按(あん)じ、第3南遣艦隊司令部からセブに山本繁一参謀を派遣したが、彼の事情聴取に対し福留は「鞄は現地人に奪われたが、ゲリラはそれに何ら関心を示さなかった」と弁解した。しかるに戦後の自著『海軍の反省』では「鞄は飛行艇とともに海中に没した」と書いている。
夜間離水を強行した事情と同様、彼の証言には嘘(うそ)が多い。結局、海軍中央は福留に何らの処分も下さず、作戦計画や暗号の変更さえも行わなかった。米軍と比べて、情報管理に対する日本海軍のあまりにも粗雑な体質には呆(あき)れて声も出ない。

上に甘く下に厳しい
当事、海軍の上層部は機密書類の扱いよりも、福留が捕虜になったことをより重大視した。最高幹部が「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」(戦陣訓)に悖(もと)る行動をとったなら、海軍にとって耐え難い恥辱となるからだ。福留に自決の覚悟はあったというが、実際には抵抗も自決もせず、言いなりのまま拘束されている。それどころかゲリラ兵やその指揮官である米軍のクッシング中佐らと酒盛りまでしているのだ。
解放された直後、捕虜となった責任を感じ福留が自決するのでは?と海軍はその動向を注視していた。しかし時が経(た)つと、逆に個室をあてがい、暗に自決を促したりもした。だが、福留本人には死して責任を取る意思など毛頭なかった。困り果てた海軍中央は「ゲリラは敵の正規軍とは異なり敵性が乏しく、捕虜であっても実害はない」との理由で福留を不問に付した。彼を処分すれば、自分たちの管理責任も問われることを上層部は恐れたのだろう。
軍法会議にかけられず予備役に退かされることもなく、それどころか度重なる失態にも拘(かか)わらず、福留は3カ月後には第2航空艦隊司令長官に栄転し特攻隊を送り出している。栄転は福留に対する部内の疑惑を払拭するための措置だった。福留はその後も要職を歴任、第十方面艦隊司令長官として終戦を迎え、戦後は水交会理事長や防衛庁の顧問に収まっている。
以下は、東映の映画でも描かれるなど有名な実話だが、「上に甘く下に厳し」かった日本海軍の体質が伝わってくるので、福留に対する処遇と対比させる形で紹介しておきたい。

原田一飛曹らの最期
昭和16年10月、福留と海軍兵学校同期で当時台湾の第11航空艦隊参謀長だった大西瀧治郎少将は「今度の戦争は長引きそうだから、人もたくさん要る。もし敵地に不時着しても自決を急がず、なるべく生き残り戦線に戻れるよう指導してもらいたい」旨の訓示を行った。
開戦後の同年12月12日、台南基地の九六式陸上攻撃機36機がフィリピンのクラークフィールド飛行場を爆撃、うち1機が不時着した。しかし大西の訓示を思い出し、機長の原田武夫一飛曹ら8人は自決を避け、島民に捕まり捕虜となる。福留と同様、正規軍に捕まったわけではない。翌年1月マニラを占領した日本陸軍に救出され全員が原隊復帰を果たした。
ところが既に戦死扱いとされており、生きて帰ったことに部隊側は困惑。しかも捕虜になったと分かり、8人は一般隊員から隔離された後、身柄をフィリピンのダバオに進出していた第11航空艦隊司令部に送られ、訊問(じんもん)を受けた。
幹部会議では大西参謀長一人が反対したが、司令長官塚原二四三(にしぞう)中将は自らの責任において「搭乗員が捕虜になった件は外部に漏らさず、攻撃に参加させ名誉回復の機会を与え、最後は死に場所を得させる」処置を下した。原田機の乗員は全員下士官だった。
部隊と共にインドネシアのアンボンに進出した彼等には、連日危険な爆撃任務が課せられた。だが彼らはその都度粛々と任務を遂行し、基地に帰還した。痺(しび)れを切らせた上層部は、低高度でのポートモレスビー強行写真撮影というさらに危険な命令を下す。対空射撃で撃墜されることは必至だった。
それでも彼らは任務を果たし、これで捕虜の件も許されるのではと一縷(いちる)の期待を抱いた。だがその望みは叶(かな)わず、翌日、護衛戦闘機無しでのポートモレスビー単機爆撃が命じられた。
昭和17年3月31日、出撃した原田機から基地に「全弾命中」が報じられた。続いて「地上放火熾烈(しれつ)。ワレ被害ナシ、天候晴レ」、そして「ワレ、今ヨリ自爆セントス、天皇陛下万歳」の送信が最後であった。
(毎月1回掲載)





