半世紀前、森鴎外の「高瀬舟」を学校で読んだ時、「白河楽翁侯(しらかわらくおうこう)」という単語に出会って、さっぱり意味が分からなかった。楽翁が松平定信であることは、20年ほど前に知った。
定信は1758年、江戸の田安邸(御三卿)で生まれた。祖父は江戸幕府8代将軍徳川吉宗。老中田沼意次の意向で、定信は17歳の時、白河藩主(10万石)の養子となった。
フランス革命とほぼ同時代だ。定信から見れば、田沼は父親ほどの存在だ。田安家ではなくなったので、定信は将軍にはなれない。運命を変えた田沼を嫌悪するのは当然だ。
田沼の政治思想は、商品貨幣経済を盛んにする独特のものだ。20年ほど前までは「田沼=悪」とする歴史学者も多かったが、経済を強力に導入することで庶民の生活が豊かになったことは確かだ。半面、浅間山噴火、洪水、凶作といった災害が集中したのも事実だ。息子意知(おきとも)が乱心の武士に殺害されたのは、晩年の痛恨事だ。
全国各地で打ち壊しも発生。田沼には厳しい状況となった。そんな中、政治思想が本来正反対の定信が歴史に登場。傑物同士の厳しい権力闘争が予想されたが、定信が将軍補佐(1788年)へと昇進したその数カ月後、田沼が死去(69歳)した。
定信の「寛政の改革」は一定の効果はあったが、6年間で最終的には失敗した。定信は江戸で死んだ(1829年/71歳)。その38年後、幕府は滅亡、明治維新となった。定信が近代に近い人物だったのが意外だ。





