トップコラム【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(51) 戦略史家 東山 恭三 海軍乙事件と福留参謀長(上)

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(51) 戦略史家 東山 恭三 海軍乙事件と福留参謀長(上)

大型飛行艇二式大艇(鹿屋の海上自衛隊基地に実機が展示されている)
大型飛行艇二式大艇(鹿屋の海上自衛隊基地に実機が展示されている)

パラオ空襲で大打撃

トラックの壊滅に続き、海軍はさらに失態を重ねた。海軍乙事件と呼ばれるが、山本五十六に続き、古賀峯一連合艦隊司令長官が行方不明の後に殉職。また福留繁連合艦隊参謀長がフィリピン・ゲリラに捕まり、携えていた次期作戦の機密文書が米軍の手に渡ったのである。

昭和19年2月半ば、米軍の来襲近しと判断した古賀長官は、戦艦武蔵、長門などの艦隊主力をトラックからパラオに下げた。だがトラック空襲に続き米機動部隊はそのパラオにも襲い掛かってきた。3月下旬、哨戒機から「3群以上の米空母部隊西進」の報を受け、古賀長官は主力艦の在パラオの主力艦退避を命じた。

ところがタンカーなどは在泊を命じられ、輸送船団も港外に出て米軍機に襲われる危険を避けようとして港内に留(とど)まった。そのため3月30日の米機動部隊による空襲で、工作艦明石やタンカー、輸送船等約30隻が沈没、航空機も全滅した。

トラック島空襲の時もそうだったが、戦艦などはいち早く逃げ出すが、タンカーや輸送船は足手まといとして置き去りにする。その結果、壊滅的打撃を蒙(こうむ)り、事後の補給や継戦能力を大きく低下させる愚を海軍は繰り返しているのだ。

31日朝、古賀長官は西進を続ける米艦隊の撃砕を狙うZ作戦発動に備え、第2艦隊やシンガポールに近いリンガ泊地で再編中の航空部隊に対し、フィリピンのミンダナオ島ダバオへの集結を命じた。そして連合艦隊司令部もダバオに移動するため、サイパンの二式大艇にパラオへの進出を命じた。

消息を絶った長官機

31日夜、古賀は幕僚らと共に二式大艇2機に分乗してダバオに移動した。ダバオへの夜間移動を決定したのが福留繁連合艦隊参謀長だった。しかし、夜間に急ぎパラオから脱出するほどの緊急性もなく、準備を整えるため4月1日早暁の出発とされた。

これに対し福留参謀長は、31日も米艦載機の空襲を受けたこと、同日夕刻、ヤップ方面を飛んだ偵察機が「空母2隻を基幹とする大部隊」が西に向け進行中と打電してきたこと、さらに米軍の次の攻撃目標はパラオに違いないとの思い込みがあったことも影響し、米軍のパラオ上陸を恐れてその前に逃げ出そうとしたのだ。

しかし、古賀司令長官以下の移動は、連合艦隊の司令部が移動することを意味する。夜間は電離層が移動するため無線の通信状況が悪化する。司令部と各基地との交信が途切れることは海軍全体の指揮に多大な悪影響を及ぼすことが懸念される。そのうえダバオ方面には低気圧が発生していた。

米軍の攻撃を受けるパラオの日本軍施設(昭和19年3月)
米軍の攻撃を受けるパラオの日本軍施設(昭和19年3月)

パラオに残留を命じられた連合艦隊司令部情報担当幕僚の中島親孝中佐は、危険の多い夜間飛行に反対したが、「間もなく飛行艇も到着するから」と福留は出発を強行した。

しかも夜8時パラオに到着した二式大艇の搭乗員に福留は出発を急がせた。空襲警報が出たからと予定していた燃料補給を参謀らは止めさせ、即時出発を命じた。せかされた2番機の乗員は、飛行高度や速度の計測に用いる主翼ピトー管のカバーを外さぬまま離水した。

米軍のパラオ上陸はなく、空襲警報も誤報であった。それは結果論としても、中島情報参謀が認めている通り、この時1、2時間を争うほどの逼迫(ひっぱく)性はなく、数時間待って当初の予定通り早朝に出発しても何ら問題はなかった。

開戦以来一度も最前線に出た経験の無い福留は、陸戦準備を急ぐパラオ根拠地隊の動きや米軍の攻撃を受け湾内で炎上するタンカーの残骸に動揺し、さらには米軍上陸部隊の影に怯(おび)えたのか。ちなみに彼は海軍兵学校次席、海軍大学校首席卒のエリート、戦略、戦術の神様とも評された。

戦後、福留は自著で、敵の大輸送船団が西進中との重大情報が大本営から通報されたことを夜間脱出の理由に挙げている。だがそのような情報を大本営が発した証拠はなく、中島参謀も入電の事実を否定している。

31日午後8時55分、古賀の乗った1番機が離水、福留の乗る2番機は米軍機接近の警報が出たため離水が遅れ、編隊飛行ができなくなった。3番機は翌日未明に出発を延期した。

以後、1・2番機とも基地との交信が完全に途絶え、2機ともダバオには着かなかった。長官機は消息を絶ち、必死の捜索にも拘(かか)わらず機体の破片さえ見つからなかった。結局、暗夜の海上に墜落したものとして古賀長官は殉職扱いにされた。低気圧に巻き込まれての事故と推測されたが、名誉の戦死でもなければ、不可抗力によるものでもなかった。

富士川の水鳥に酷似

山本五十六の場合とは違い、暗号が米軍に解読されたわけでもなければ、米軍機と遭遇して撃墜されたものでもない。古賀の遭難は、連合艦隊司令部が冷静に対処しておれば避けることが出来た。米軍のパラオ上陸に怯えた福留が“富士川の水鳥”の如(ごと)き醜態を晒(さら)したのだ。

富士川の水鳥とは治承4(1180)年10月、源頼朝追討のため平維盛が3万余騎を率い富士川西岸に陣取るが、20万騎を超える源氏の大軍に慄(おのの)き、水鳥の羽音を源氏の夜討ちと勘違いし、武器も手にせず一目散に逃げ去り笑いものとなった「平家物語」が伝える逸話だ。

侍大将が水鳥の羽音に怯えて逃げ出した例はそれまでの歴史に無かったが、敵上陸の妄想に連合艦隊司令部が我先にと逃げ出す例も日本海軍史上、後にも先にも例がない。平家と同様、以後、海軍はさらに負け続けることになる。

(毎月1回掲載)

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