石破茂首相の驚異的な粘り腰が続いている。自民党内からは再三の辞任要求論が噴出したものの、首相は続投の意思を変えていない。首相就任後まもない衆院選挙で衆院過半数割れ、次いで準国政選挙ともいえる都議選でも大敗して都議会第2党となり、そして参院選でも過半数割れと少数与党に転落した。
こうしたトリプル敗北となれば、従来の永田町論理からいっても当然、責任をとって辞任ということになる。だが、不思議なことに今回は野党からの辞任要求論は影を潜めるどころか、果ては官邸前で「石破辞任反対」を叫ぶ反自民グループのデモまで出てくる始末だ。
選挙敗北の責任論を逃れるのはさすがに厳しい。首相もそれは自覚していたのであろう。側近や周囲に弱音を吐いたこともあろう。それが一部大手全国紙の「辞任へ」号外の誤報にもつながった。しかし、それが公になると、一転「続投」の意思を頑(かたく)なに、あるいは開き直って表明している。
首相の思いを“忖度(そんたく)”すれば、こうだろう。
「たしかに自らの責任論は認める。しかし、誰が首相(総裁)であっても負けたのではないか。岸田前首相以来の支持率急落の、いわば“尻ぬぐい”で後を継いで任されただけに、自分だけの責任と言われても納得し難い」
だが、自民党総裁はそのトップとしてこれまで責任をとってきたのではなかったか。選挙前の勝敗ラインについて「与党で過半数」を明言したのも、いつのまにか「比較第一党としての責任を果たしていく」にすり換わる。この石破氏の“永田町力学”はどこまで通じるか。
一方、これはあまり指摘されていないが、首相のクリスチャンとしての「信仰」がその去就の背景にないのか。首相の「信仰」がどれほどのものかは他者から量られるものではないが、よくも悪(あ)しくも党内から浮いた観のある石破氏ならではの振る舞いには、党内でも予想外の困惑を持って受け止められている。
もっとも、「石破おろし」が先鋭化しにくい党内状況であることもたしかだ。派閥が解体され、その力学はかつてほど通じなくなっている。さらに衆参両院で少数与党に転落した今、野党の協力が必要な弱みもある。
安倍元首相暗殺事件後、自民党は岸田前政権のLGBT法の推進や安倍派叩(たた)きなどに見られるようにリベラル化が進んだ。石破政権発足後の国政選挙敗北はそうした自民党の保守主義が危機に瀕(ひん)し、その受け皿として躍進したのが参政党や国民民主党だ。そうした反省なしの無原則な部分協力を野党との間で模索しても単なる“政権延命”の誹(そし)りを免れない。
本来の保守路線を貫く方策と党体制を確立できるか。総裁本人が自ら辞任した場合を除いての臨時総裁選挙が行われるかどうかにかかわらず、その党としての「顔」が問われる。
(黒木正博)





