
他に例を見ない損害
昭和19年2月17日、朝5時頃から米艦載機によるトラック攻撃が開始され、午後5時まで9次にわたって空襲が続いた。米軍はF6F戦闘機などでまずトラック上空の制空権を獲得、その後、戦闘機の銃撃や攻撃機の急降下爆撃で地上の航空機を破壊、続いて飛行場を使用不能にした後、燃料タンクや倉庫を次々と破壊するとともに在泊艦船の攻撃に移った。
真珠湾攻撃で日本軍は、戦艦などの主要艦艇と航空機に目標を絞り後方施設や輸送船などには手を出さなかったが、ロジスティック重視の米軍は正面装備以外も破壊し尽くした。翌18日も午前5時から米軍機は空襲を繰り返し、“真珠湾の仇”を晴らし引き揚げていった。
2日間の攻撃に参加した米軍機は延べ1250機、投下した爆弾や魚雷は490㌧。初日の空襲で在島の航空部隊は全滅、2日目は邀撃(ようげき)戦闘がほとんど不可能な状態だった。空襲で日本軍が被った損害は、日米で諸説あるが概(おおむ)ね以下の通り。
航空機損失約270機(地上での破壊約200機、迎撃中の損耗約70機)。
戦闘艦艇沈破18隻(巡洋艦3隻、駆逐艦4隻など10隻沈没、8隻損傷)約2万3千㌧、輸送船および油槽船など沈没33隻、約21万㌧。
その他燃料タンク3基破壊(石油1万7千㌧消失)、倉庫、航空廠(しょう)など主だった施設は悉(ことごと)く破壊された。死傷者約600人(一部艦船乗員含まず)。太平洋戦争中、一度にこれほど多くの損害を出した戦いは他に例を見ない。一方、米軍の失った航空機は25機(戦闘機12機、急降下爆撃機6機、雷撃機7機)だけであった。
トラック空襲はミッドウェイ海戦以上に深刻な事態であった。ミッドウェイは戦闘の結果としての敗北だったが、トラックは米軍の一方的な攻撃を許し、為(な)す術(すべ)もなく全滅を喫したからだ。しかるにミッドウェイ海戦は戦後幾度も作戦指揮の問題が論じられてきたが、トラック空襲については一方的な負けとなったためか、ほとんど関心が払われてこなかった。不都合な記憶を遠ざけ、過去の失敗から学ぼうとしない日本の姿勢は呆(あき)れるばかりだ。
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哨戒偵察で重大ミス
本事案でまず批判さるべきは、米軍来攻を前にトラックの司令部が哨戒偵察活動で信じ難いようなミスを犯した点だ。2月15日、一式陸攻5機を以(もっ)てトラック東方海面を哨戒したが、うち2機が未帰還、またトラックの第4艦隊司令部敵信班が米空母艦載機の交信を傍受し、「米軍来襲近し」と判断、警戒を厳にした。
だが16日に飛ばした9機の索敵機は異常なく全機無事帰還したため、トラック防衛の任を帯びる第4艦隊司令長官小林仁中将は午前10時半、それまでの警戒配備を平常の態勢に戻した上、17日は索敵機さえ出さなかった。17日午前4時半頃トラックの対空レーダーが大編隊接近を探知、ここで初めて米軍の来襲を知るが、警戒を解除しており対処に出遅れ、米軍の一方的な攻撃を許す結果になる。
トラック空襲で露呈した偵察警戒の軽視は、索敵の不徹底から空母4隻を失ったミッドウェイ海戦の戦訓が、この時期に至っても部隊に浸透していなかった実態を物語っている。
そもそも海軍の図上演習では、毎回審判部から敵情が付与され、それを前提に部隊の運用や作戦、戦闘の要領を演練するのが通例だった。自らが敵情を探らずとも状況が一方的に付与されるため、偵察活動の必要性が理解されず、その重要性を説く指導も為されなかった。
関心は作戦決定後の攻撃、戦闘方法に集中した。それが勇敢な軍人の姿と美化された。要するに「戦うのが本分、敵情をこそこそ探るは軍人の理想像にあらず」という感覚だ。そのような偏向した体質が海軍にべっとりと染みつき、容易に抜け出せていなかったのである。

緊張感の欠如で惨敗
しかも真珠湾を航空攻撃したにも拘(かか)わらず、トラックには僅(わず)かばかりの対空火器しか配置されておらず、真面目な防空体制を敷いていなかった。迎撃戦の際の指揮系統も曖昧だった。航空機は銃弾を積まず、その上、丸裸の状態で滑走路に配備されており、偽装や格納、掩体壕(えんたいごう)の準備もお粗末だった。攻撃を重視し、偵察や防御を軽んじる日本海軍の悪癖に加え、トラックに米軍が襲い掛かることなどあり得ぬとの油断や思い込みに囚(とら)われていたのだ。
ミッドウェイの敗北は、「負けるはずが無い」との驕慢(きょうまん)に因(よ)るものであった。一方、トラックの惨敗は、緊張感の欠如が招いたといえる。最前線から帰投した兵士の多くは、トラックの雰囲気があまりにのんびりとしていることに平素から強い違和感を抱いていた。
昭和17年夏、山本五十六連合艦隊司令長官がこの島に腰を据えて以来、連合艦隊司令部はこの島から動こうとしなかった。戦艦大和や武蔵は当時珍しい冷房完備、「大型艦は燃料を食うから」を口実に出動せず、連日豪華な食事やデザートが幹部に供され、食事中楽隊が音楽を奏でていた。駆逐艦の乗員らは羨望(せんぼう)と皮肉を込め「大和ホテル」などと揶揄(やゆ)した。戦線を指揮する連合艦隊司令部はいつしか緊張感を無くしていった。第4艦隊も同様だった。
「この敵の基地は防備強固なことで評判になっていた(が、)…防備は予想したよりも遙(はる)かにお粗末なもので、占領するよりもむしろ無力化した方が良いということが分かった」(アーネスト・キング『キング海軍元帥 米国海軍の記録』)
トラックの壊滅によって、太平洋戦争での日本の敗退は事実上決定的となった。
(毎月1回掲載)