悲劇招いた兵力分散と増援放棄

蛙飛び戦法採る米軍
ギルバート諸島のタラワ、マキンを押さえた米機動部隊(第58任務部隊)は年が明けた昭和19年1月末、マーシャル諸島に襲い掛かった。マーシャル諸島の防備は、海軍第6根拠地隊と第22、24航空戦隊、それに陸軍が加わり総兵力約3万2千人。しかし各島への分散配備で、その上、陸軍部隊が到着したのは19年に入ってのことだった。
日本軍はギルバート諸島に近いミレ島やヤルート島を米軍上陸地点と想定し、防備を固めつつあったが、蛙(かえる)飛び戦法を採る米軍は日本軍守備隊が展開するミレ、ヤルート、ウオッゼ、マロエラップ、クサイの各島を全て素通りした。
そして1月30日、猛烈な艦砲射撃と航空機による地上攻撃を実施した後、2月2日、約4万人の兵力をもってクェゼリン本島および地続きのルオット・ナムルの両島に上陸した。
米軍はタラワ・マキンでの戦訓を活(い)かし、砲撃には貫通力の高い徹甲弾を使用、また砲爆撃の精度を高めるため弾着観測の合同攻撃通信部を新設した。さらに上陸用舟艇には新たにロケット弾や機関銃を装備した。水陸両用車も倍増させている。一方、日本軍の防備体制はタラワに比べ劣っていた。

上陸前の砲爆撃で既に日本軍防御陣地の大半は失われ、2月6日までに米軍は占領を終えた。クェゼリンの海軍第6根拠地隊と陸軍第61警備隊の4千人は玉砕、ルオット・ナムルの航空部隊3千人も全滅した。
素通りされ攻撃を受けなかったミレ、ヤルートなど各島には2万人近い兵員が配置されていたが、後方との連絡を絶たれ補給を得られず、戦後、復員船が来るまで飢餓地獄に苦しんだ。蛙飛びで迫る米軍に対し、南太平洋の各戦線で見られた日本軍による各島嶼(とうしょ)への無意味な兵力の分散と増援の放棄が、衆寡敵せず度重なる玉砕と餓死の悲劇を招いたのである。
ソロモンやギルバートは開戦後に占領した島嶼だが、マーシャル諸島は第1次世界大戦後の大正8年に国際連盟規約に基づき日本の委任統治領となったもので、世界大戦戦勝の、そして我が国南方進出の象徴的な存在だった。昭和5年発売の流行歌「酋長(しゅうちょう)の娘」でも「赤道直下マーシャル群島ヤシの木陰でテクテク踊る」(2番の歌詞)と歌われるなど国民に広く知られたマーシャル喪失の衝撃は決して小さくはなかった。
日本海軍の対米戦構想であった漸減邀撃(ようげき)戦略では、西進する米艦隊を待ち受け撃破する海域はマーシャル諸島周辺を想定していた。そのマーシャル諸島に連合艦隊はおろか航空機も派遣できぬままあっけなく敵の手に落ちたのだから、海軍の受けたショックも大きかった。マーシャルの失陥で絶対国防圏のトラックやマリアナが防衛の最前線となり、しかも早期の米軍来攻が懸念された。
難攻不落トラック島

米機動部隊は2月1日、日本軍が放置したマーシャル諸島のマジュロ環礁を無血占領、米海軍の泊地(休養、補給、修理)として整備し、艦隊の重要な前進拠点となした。そして次の攻撃目標は、絶対国防圏の一角を成すトラック環礁に向けられた。2月12日、スプルーアンス中将は空母9隻、戦艦6隻、巡洋艦10隻、駆逐艦27隻からなる大機動部隊を率いてマジュロを出港した。
トラックはマーシャルと同じく第1次世界大戦後、日本の委任統治領となる。波穏やかで広大な環礁内には連合艦隊の主要な艦艇が停泊できたほか、空母艦載機の離発着訓練も可能であった。環礁への出入り口が限られ、敵潜水艦の進入を防ぐことが容易であった。
俗にトラック島と呼ばれたが、環礁内の春島、夏島、それに竹島などに飛行場や第4艦隊司令部はじめ各部隊が展開、弾薬庫や巨大な石油タンクも配置され、さらには横須賀を本拠とする料亭も営業するなど太平洋方面で作戦展開する海軍の補給・作戦の最大拠点であると同時に、最前線で死闘を続ける兵士の心と体を癒やす貴重な休養地でもあった。
トラックは“日本の真珠湾”、あるいは“太平洋のジブラルタル”とも呼ばれ、海軍はその難攻不落を誇り、またそのように信じていた。他方、“真珠湾の報復”を誓う米海軍にとって、日本海軍の根拠地トラックは必ず叩(たた)き潰(つぶ)さねばならぬ攻撃目標であった。
連合艦隊主力が撤退
ラバウルが孤立し、さらに米機動隊が中部太平洋を西進する状況を前に、昭和18年11月、海軍軍令部はトラックに置いていた連合艦隊司令部を約2千㌔西方のパラオに引き下げる方針を示し、同時にそれまでマーシャル付近を想定していた米太平洋艦隊との決戦海面もカロリン諸島西方~マリアナの線に後退させた。
明けて昭和19年1月7日、米軍機のトラックへの触接を受け「攻撃近し」と判断した古賀峯一連合艦隊司令長官はトラック島からの撤退を決意、1月下旬~2月上旬にかけ戦艦長門、扶桑等主力艦艇部隊をパラオに回航させた。だがトラックに遺(のこ)された商船などの乗組員には米軍接近の情報は一切知らされなかった。古賀は戦艦武蔵で内地に向かい、2月17日、永野修身軍令部総長、嶋田繁太郎海相に会い、トラックの防備を厳重にすべきことを訴えた。
同じ2月17日の午前5時ごろ、米機動部隊の空母から飛び立った艦載機がトラック島を急襲した(ヘイルストン作戦)。米軍は午後5時まで9次にわたり大空襲を繰り返した。翌18日も終日空襲は続き、中部太平洋における日本海軍最大の拠点は為(な)す術(すべ)もなく壊滅した。
戦略史家東山恭三