トップコラム江戸っ子と「浅草っ子」【上昇気流】

江戸っ子と「浅草っ子」【上昇気流】

三社祭のお神輿

令和の東京・浅草は外国人客も多く、人であふれている。が、30~40年前は人出が少なかった。浅草の若旦那衆は、六本木や赤坂辺りで飲むことも多かった。

「江戸っ子」という言葉は、18世紀後半の田沼意次の時代に生まれたと言われる。田沼は歴史の上でも江戸幕府の将軍と同じくらいに有名だ。「田沼時代」という言葉があるほどだ、

最近のテレビ番組で「浅草は飛鳥時代からの町なのだから、江戸っ子というのは似合わない。江戸っ子以前だ」と「浅草っ子」が言っていた。浅草寺は628年(第33代推古天皇のころ)、隅田川で漁師が発見した観音像が起源とされる。江戸幕府成立の1000年近くも前の話だ。

その一方で「江戸っ子は芝や神田のような江戸城に近い町で生まれた人のことをいうので、江戸城から遠い浅草の人々を江戸っ子と呼ぶのは厚かましい」という謙虚な浅草っ子もいる。これはこれで、東京下町の人の気の弱さにも通じる見方だ。

山内昌之著『将軍の世紀』(文芸春秋刊)によると、幕府の所在地に住む江戸っ子は、自ずと武士との接点が多かった。これは大坂や京都とは全く違う要素だったという。

武士の気質が町人にも浸透して「男を立てる」「顔がつぶれる」といった武士風の建前論が江戸っ子の間で形成された。無論、江戸城から少々離れた浅草の人々も、その点は変わりはなかったはずだ。広く言えば「浅草っ子も江戸っ子の内」ということになりそうだ。

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