日本軍守備隊、鉄壁の守り築く
米兵震え上がらせた日本兵の反撃

椰子の木活用し要塞
タラワ環礁ペティオ島の守備隊(第3特別根拠地隊)は、米軍の攻撃に備え陣地構築を急いだが、陸軍の増援は得られず、またセメントや金属など要塞(ようさい)構築に必要な物資も不足していた。そこで守備隊は椰子(やし)の木を活用した。島で手に入る唯一の資材だったからだ。伐採した椰子の木を丸太に加工し、半地下式のトーチカや陣地構築の資材に用いたのである。
各トーチカは地下壕(ごう)で結ばれ、それぞれの射線を連携させ攻撃の死角が出ぬよう工夫を施した。米兵の上陸を阻むため、海岸線や海中にも椰子の丸太で組んだ防壁や防塞を設置した。また日露戦争当時の装甲巡洋艦から取り外した20㌢砲を海岸砲台とした。
もっとも守備隊の司令官友成佐市郎少将は戦艦霧島の艦長を歴任するなど軍艦の運用には精通していたが、陸戦指揮の経験は皆無だった。タラワが戦史に残る堅固な防御を為(な)し得たのは、専ら陸軍築城本部から派遣された豊田正夫大尉の指導によるところ大であった。また友成は主席参謀と激しく対立、叱責された主席参謀が自決に追い込まれるなど司令部内の人間関係も悪かったため更迭され、待命予備役に追い込まれている。
昭和18年7月21日、友成の後任として柴崎恵次少将が着任した。柴崎司令官は陸戦指揮のベテランである上、武道を極めた闘将で、海岸に有刺鉄線の鉄条網を張り巡らせるなど、さらに陣地を強化したほか、夜間、払暁などの厳しい訓練を兵に課し、戦闘力の底上げと軍紀の刷新に務めた。その一方、部下思いで自ら演芸会を催すなど兵士への配慮も怠らなかった。指揮官の交代を機にタラワ守備隊の士気大いに高まり、俄然(がぜん)精強さを増していった。
上陸阻む壮絶な戦い

昭和18年11月19日早朝から20日にかけて米軍は猛烈な空襲と艦砲射撃を加え、翌21日午前、ギルバート諸島のタラワ環礁(ペティオ島)、マキン環礁(ブタリタリ島)、それにアパママ島への上陸作戦を開始した。
ペティオ島では日の出前から2時間半にわたり艦砲射撃が続いた後、米軍は 3個大隊の兵力を四つの担当海岸に分散、6波に分けて島の北岸から上陸してきた。米軍の上陸地点を島の南側と考えていた日本軍は、急遽(きゅうきょ)防備施設を西~北岸に移動させ陣地構築を急いだ。
ペティオ島は東西3・5㌔、南北0・5㌔の小島。未明からの凄(すさ)まじい砲撃で既に日本軍は壊滅状態にあるものと米軍は高を括(くく)っていた。ところが島に接近するや、日本軍は一斉に反撃を開始。海岸沿いに備え付けられていた砲台や機銃座に潜んでいた日本兵が上陸しようとする米海兵隊員に猛烈な攻撃を加え、海岸に辿(たど)り着く前に半数近い米兵が倒れた。海辺まで進むことができた僅(わず)かな米兵も悉(ことごと)く日本兵に狙撃され、防塁を乗り越えられなかった。
米軍の上陸作戦が続く午後2時ごろ、柴崎少将が爆撃により戦死した。負傷した兵士の収容所として司令部を明け渡し、別の防空壕に移動する途中爆撃に遭ったといわれている。
司令官や参謀ら司令部員が戦死、また砲爆撃で壕やトーチカ間の通信が途絶したため命令系統が寸断され、日本軍は一斉攻撃や大規模な夜襲等組織的戦闘が実施できなくなった。
22日早朝、米増援部隊が再び海岸に向け進撃を開始。日本軍も砲台や機銃座で反撃し米軍の上陸を阻んでいたが、彼我戦力の差は如何(いかん)ともし難く、次第に後退を強いられた。日本軍の防備は海岸沿いに集中しており、一旦(いったん)米軍に上陸を許した後は大規模な反撃に出ることが難しかったが、各部隊の生存者は島の各所で必死必殺の肉弾攻撃で抵抗を続けた。
兵士の多くは、たとえ玉砕しても、やがて連合艦隊が来て米軍と戦い勝利することを信じていた。だが大本営が連合艦隊参謀長にギルバート支援の打診をしたものの、部隊が送り込まれることはなかった。
米軍は上陸後、戦車で島を中央で分断、日本軍の連携を阻み、各陣地やトーチカを次々に包囲、殲滅(せんめつ)していった。それでもなお日本兵一人一人は戦いを止(や)めることなく、小銃や銃剣、日本刀、手榴弾(しゅりゅうだん)等で反撃を試みたため、恐れおののいた米軍はトーチカや壕の中に爆薬や手榴弾を投げ込んで爆破し、さらに火炎放射器で焼き尽くした。
壕の中には多くの負傷兵もいたが、米軍は無抵抗な兵士も大量に殺害した。非戦闘員や設営部隊の朝鮮人軍属らも火炎放射器の犠牲になった。23日夜、残存日本兵約300人が万歳突撃を敢行したが、米軍の射撃に倒れ翌朝抵抗は止んだ。日本兵の死体が散乱する凄惨(せいさん)な状況の中、負傷した兵士は捕虜になることを潔しとせず、自決して果てた。
上陸4日目の11月24日、ようやく米軍はベティオ島の掃討完了を宣言した。日本軍守備隊約4600人は全滅(捕虜17人)、米海兵隊約1万8600人のうち戦死者約千人、戦傷者約2300人。同日マキンも陥落、アパママ島の日本軍も25日には全滅した。
鬼神の如き奮戦ぶり
島を奪われたとはいえ、ギルバートで日本軍が見せた鉄壁の守り、そして命を惜しまぬ兵士の壮烈な戦いぶりに米軍は震え上がった。ソロモンのジャングル戦では、日本兵との至近距離での肉弾戦をさほど体験していなかったからだ。鬼神の如(ごと)き守備隊の奮戦の様は日本兵や日本軍に対する米軍の心証や認識を一変させ、以後の作戦にも大きな影響を及ぼした。
今日、タラワ、マキンが何処(どこ)にあるのか知る日本人は少ない。しかし、遠き南方の小島で、まともな武器や食料さえも無く、しかも増援の得られぬ絶望的状況の中にありながら、兵力・装備とも遙(はる)かに勝る米軍の心胆を寒からしめた守備隊員の武勲を我々は決して忘れてはならない。ペティオ島の公園にある兵士の慰霊碑は故国日本を向いて立っている。
(毎月1回掲載)
戦略史家 東山恭三