米海軍、最強の新艦隊を投入
日本軍は時間稼ぎの玉砕戦

昭和18年後半、両洋艦隊法に基づき建造が進められていた新鋭艦が続々と米太平洋艦隊に配属された。それらを基幹に、ニミッツ大将の太平洋方面軍は最強の新艦隊を編成した。指揮官には、スプルーアンス中将とそれまで南太平洋方面軍司令官を務めていたハルゼー大将が交互に務めることになった。
スプルーアンスが指揮を執る時は第5艦隊、ハルゼーが指揮する時は第3艦隊と呼ばれるようになる。この艦隊は陸海空一体となって強襲上陸作戦を実施するもので、高速空母機動部隊、水陸両用戦部隊、それに水陸両用戦部隊に編入された上陸部隊の3者で組織された。
中心となる高速空母機動部隊は通常四つの任務群(タスクフォース)から成り、各任務群は最新鋭のエセックス級正規空母2隻、インディペンデンス級軽空母2隻、新型高速戦艦1~2隻、巡洋艦3~4隻、駆逐艦12~15隻等で構成された。第5艦隊の時は第58機動部隊(ミッチャー中将指揮)、第3艦隊なら第38機動部隊(シャーマン少将指揮)と呼ばれた。

南太平洋海戦以後、一時は太平洋に1隻の正規空母も展開できなかった米海軍が、今や修復なったサラトガ、エンタープライズの2隻にエセックス級空母(2万7千㌧、搭載機90機)を加え8隻に拡充、33ノットの新型高速戦艦等が輪形陣を組み空母護衛に当たった。
水陸両用戦部隊(ターナー中将指揮)は護衛空母や旧式戦艦などの上陸支援部隊と輸送船や上陸用舟艇の部隊、上陸部隊(スミス海兵少将指揮)は複数の海兵師団や歩兵師団等で構成された。
ハルゼーがラバウルの包囲孤立化を進める一方、太平洋方面軍は訓練を終えたこの新艦隊をもって中部太平洋侵攻作戦に着手し、ギルバートからマーシャル、さらにマリアナ、フィリピン、そして硫黄島、沖縄を経て日本本土に攻め上って来るのである。
主戦場はギルバート
昭和18年9月1日、統合参謀本部からニミッツに対し、ガルバニック作戦(ギルバート諸島攻略作戦)に関する指令が与えられた。これを受けスプルーアンス指揮の第5艦隊は9月から11月にかけて南鳥島やウェーキ島などに航空攻撃を加え、一部はブーゲンビル島沖航空戦に参加した後、ギルバート諸島(現在のキリバス共和国)のタラワ、マキン環礁の攻略に動く。マーシャル諸島を攻略する前に、その東南に位置するタラワ、マキンに所在する日本の航空部隊を無力化することが目的だった。

開戦劈頭(へきとう)の昭和16年12月、日本海軍は英国領ギルバート諸島をほぼ無抵抗で占領した。太平洋戦争で日本軍が獲得した最も東に位置する島嶼(とうしょ)である。第1次世界大戦後に委任統治領となったマーシャル諸島に海軍は基地を設けたが、ギルバート諸島はその前哨基地とされた。ハワイと豪州を結ぶ線上に位置する同諸島は、米豪の遮断作戦を進める上でも価値ある存在だった。
もっとも占領後、日本軍はタラワから即日撤収、諸島の北部に位置するマキンには飛行場を築いたが、その防御も手薄で僅(わず)か70人の守備隊員が常駐するのみであった。
ミッドウェイ海戦後、ソロモン諸島が日米決戦の主戦場となるが、ギルバート方面における日本軍の防備の甘さに気付いた米軍は昭和17年8月、ソロモン反攻作戦の牽制(けんせい)陽動、それに防備状況把握を目的に、2隻の潜水艦をもってマキンに奇襲攻撃を実施。寝込みを襲われた日本軍守備隊は指揮官を含む43人が戦死した。

事態に驚いた海軍中央はギルバート諸島の防備強化を決定、急遽(きゅうきょ)横須賀の第六特別陸戦隊(横六特)を無防備状態だったタラワ環礁に派遣し、ベティオ島に滑走路や発電施設などを整備した。昭和18年3月には横六特は第三特別根拠地隊(三特根)に改編、また増強部隊として佐世保の第七特別陸戦隊(佐七特)がベティオ島に送り込まれた。
だが戦況の悪化や遠方故の補給、兵員輸送の困難さ、また海軍がアッツ島救援の艦船派遣に応じず同島の陸兵が玉砕に追い込まれたことに憤慨した陸軍が兵力提供に非協力的だったこともあり、大規模な地上部隊の投入はなされず、海軍の陸戦隊だけで防備に当たらざるを得なくなった。
既定路線だった玉砕
昭和18年4月23日夜、12機のB24がベティオ島を空襲。それまでタラワ、マキンに米軍の偵察機が飛来することはあったが、本格的な空襲はこれが初めてだった。ギルバート周辺の緊張が高まる中、5月8日に連合艦隊旗艦武蔵で内南洋防備会議が開かれた。
その席上、古賀峯一連合艦隊司令長官は、当面の情勢判断および所信を述べた。
「日本海軍の兵力は米海軍の半分以下に減じ三分の勝算も無く、玉砕作戦を行い米軍に出血を強要し時間を稼ぐ以外に道がない。その上で我に有利なマーシャル方面で艦隊決戦に持ち込むのが唯一の戦法と確信する」
その夜、慰労の宴が設けられた。黒島亀人連合艦隊先任参謀はマキン守備隊から参加していた参謀を相手に、酒の勢いも借りながら次のように叫んだ。
「1週間、いや3日でいい、米軍を釘(くぎ)付けにしてくれ。死んでくれ、骨は拾ってやる」
兵力増援はできず、所在の兵力で島を死守せよ。その間に連合艦隊が敵機動部隊を邀撃(ようげき)するとの意である。玉砕する半年以上も前に、タラワ、マキン守備隊の運命は既に定まっていたのである。
(毎月1回掲載)
戦略史家 東山恭三