
「わしが死んだら天下はどうなるか」「乱れましょう」「そう思っておればよろしい」――。出典は忘れたが、病床にあった徳川家康が子の秀忠に問うた時の会話という。天下を掌握し終えた父とその偉業を担う子の「覚悟」がうかがわれる。
初代がいかに苦労して財産を残しても3代目となると没落する様を「売り家と唐様で書く三代目」と俗に言われる。2代目はその岐路となり、その意味で徳川三百年の礎を築いた秀忠の功績は大きい。
だが、当然のことながら“遺業”を継承し発展させる上で無理もするし荒療治も避けられない。特に戦乱は収まったとはいえ、また戦国の世に戻るか分からない不穏な時勢でもある。
家康亡き後の秀忠の治績を見ると、豊臣恩顧の大名の改易いわゆるお取り潰しの数が歴代将軍の中でも突出している。それは外様大名にとどまらず身内の一族にも及ぶ。その前のめりの姿勢は際立つ。
思想や秩序の面でも、例えばキリシタン禁令の徹底は厳しいものがあった。「三大キリシタン殉教」の一つ、京都では11人の子供を含む52人の信徒が火あぶりの刑を受けた。3代家光もそれを踏襲する。
これは個人を超えた権力あるいは体制維持の“DNA(遺伝子)”が成すものと言っていいかもしれない。もちろん国家と民間の家業とは次元が異なる。ただ、国家運営においては多くのスタッフを擁するとはいえ、その継承者の重圧は程度の差はあっても共通するものがあろう。